歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・平安時代

道長の御嶽詣!平安時代の信仰風景、紫式部ゆかりのあの人も行ったらしい!

平安時代、華やかな宮廷文化の陰で、貴族たちは深い信仰心を持って山岳信仰に励んでいました。
その中でも特に注目されるのが「御嶽詣」です。

光る君への第35回「目覚め」の回でも藤原道長が御嶽詣でをする回になっています。
藤原道長をはじめとする有力貴族たちが、金峯山などの霊山を訪れ、祈りを捧げていました。
この御嶽詣で単なる信仰心の表れだけではないようです。
政治的な思惑や個人的な願い、そして時には派手な衣装で参詣するという驚くべき行動まで、御嶽詣には平安貴族の複雑な内面が映し出されています。
本記事では、藤原道長の有名な参詣や、『枕草子』に描かれた藤原宣孝の奇抜な参詣スタイルなどを通じて、平安時代の貴族たちにとっての御嶽詣の意味と、その社会的影響について書いてこうと思います。

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藤原道長の御岳詣

藤原道長は寛弘4年(1007年)に金峯山(きんぷせん)への参詣を行いました。
この参詣は「御岳詣」または「金峯山参詣」と呼ばれています。

参詣の背景

なぜ道長は危険な道行をしたのでしょう。
道長は当時、不吉な出来事が続いていたことや、娘の彰子の懐妊がないことを懸念していました。

道長を取り巻く不吉な出来事とは?

藤原道長の御嶽詣(金峯山参詣)の背景には、いくつかの不吉な出来事や懸念事項がありました。
どのようなものがあったんしょうか?

娘彰子の懐妊がないこと

道長の娘である彰子は、999年に12歳で一条天皇の女御として入内し、中宮となりました。
しかし、1007年の御嶽詣の時点で彰子は20歳になっていましたが、まだ皇子を出産していませんでした。
これは道長自身の悲願がかなうかどうか切実な問題だったのでしょう。
道長の悲願は「天皇の外戚になること」でしたから。
入内から8年も過ぎてそれがなされないなんて…。
焦りも相当あったと思います。

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道長自身の病

実は道長は様々な病に苦しんでいたようです。
特に道長を苦しめたのは糖尿病と言われていて、かなり有名です。
何と日本の切手で糖尿病撲滅の切手にもなっています。
御嶽詣は自身の厄除けの意味もあったと考えられます。
当時の病とは祈祷などの呪術的なもので治ると信じられていたので、この辺りも道長は必死だったと思います。
早く病気がよくなって楽になりたかったんでしょうね。

末法思想の流行

道長の時代は、末法思想が流行し始めていました。
これは仏教の教えが廃れ、救われることのない世が来るという思想です。この不安な社会情勢も、道長の宗教的行動の背景にあったと考えられます。
この思想は鎌倉時代初期まで続く思想です。
まぁ、今でも私たちも世紀末は危険とか騒いでいた時期もありましたし、ノストラダムスとか、インドのなんとかとかに惑わされていますね。
昔も今もこのあたりもなんの変化もなく、先行きの不安は常に感じていくものなんでしょうね。

政治的不安定

具体的な記述はありませんが、道長の権力基盤を強化する必要性があったことも推測されます。
なぜなら、彰子の皇子出産は、道長の政治的立場を強化する重要な要素でした。
その彰子がなかなか懐妊しないし、そのままいけば敦康親王が皇太子になってしまいます。
そうなると、ライバルの藤原伊周が政権を奪いかねないからです。
道長としては絶体絶命のピンチです。

一条天皇の他の皇子の存在

一条天皇には既に藤原定子が生んだ敦康親王がいました。
道長にとっては、彰子の皇子出産が政治的に重要でした。
もうこの件だけでも重大事件なのに、このあたりには不吉な事件も起こっていました。

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平安時代の主な天災と飢饉

地震

貞観11年(869年)に発生した貞観地震は、推定マグニチュード8.6の巨大地震で、東日本大震災に匹敵する被害をもたらしました。
平安京でも頻繁に地震が発生しており、京都の人々を脅かしていました。
この地震は道長の時代よりもかなり前ですが、頻回する地震に、祟りじゃ~という気分になってしまうのが、平安人の心情でしょう。

疫病

天然痘などの疫病が大流行し、多くの犠牲者を出しました。
道長の時代にも疫病の流行があり、これが御嶽詣の一因となっています。
実は以外にも、平安時代には天然痘によって助かってもあばた面になってしまうことも多かったようですね。
なんと平安貴族たちはあばた面の人が多かったそうです。
生き残ったのならばいい方で、栄養状態もあまりよくなかった平安時代は、一度疫病がはやるとバタバタと死んでいきました。
そんな風景を見たら、祈願したくもなりますよね。

飢饉

天候不順による不作や、疫病の流行と相まって、しばしば飢饉が発生しました。
まだ、農業などが確立していなかったようですし、体系的な農業を実践していくのがもっともっと後になってからです。
だから、日照りとか、大水などで天候不順が続くと食べ物がなくなってしまうありさまだったようです。
飢餓でなくなった方々は京都の道中で死んでいて、獣たちに食べられたり、それはそれはむごいありさまだったようですね。

火災

木造建築が主流だった平安京では、火災が頻発し、大きな被害をもたらしていました。

結局道長はこの御嶽詣で願いはかなったのか?

実はかなったと言えると思います。
なんとこの後彰子ちゃんが懐妊して、のちの後一条天皇を出産します。
翌年、彰子が懐妊すると「金峯山の御霊験」と噂されたことからも、この参詣が重要な意味を持っていたことがわかります。
御嶽詣では相当な覚悟を持ち、危険と隣り合わせで成し遂げたものだったでしょうから、ほっと一安心の道長君だったでしょうね。
この参詣は、道長にとって「生涯最初で最後の御嶽詣」と考えられていました。

参詣の詳細
道長は8月2日未明に京を出発しました。
同行者には、嫡男の藤原頼通や中宮権大夫の源俊賢などが含まれていました。
一行は石清水八幡宮、興福寺、大安寺を経て吉野に入り、8月10日に金峯山頂に到着しました。

御嶽詣を行った平安時代の貴族

実は平安時代には道長以外にも御嶽詣でに出かけた人がいます。
それはあの紫式部の夫の…あの人です。

藤原宣孝

光る君へでは佐々木蔵之介さんが演じておられましたよね。
あの時はまさしく御嶽詣でにはみかけないような服装で出かけていき、京都のみならず御嶽詣での先でもそのいでたちに目が釘付けだったようです。

正暦元年(990年)3月末に御嶽詣を行いました。
『枕草子』に、派手な衣装で参詣したエピソードが記されています。
藤原隆光
藤原宣孝の息子で、父と共に御嶽詣を行いました。

枕草子にも描かれた藤原宣孝の様子とは?

平安時代の御嶽詣(金峯山参詣)における服装については、以下のような慣習があったようです。

質素な服装が一般的

通常、御嶽詣を行う際は、身分に関わらず質素な服装で参詣するのが慣例でした。
これは山岳信仰の場に詣でる際の敬意の表れだったと考えられます。

藤原宣孝の例外的な行動

しかし、『枕草子』に記された藤原宣孝の例は、この慣習に反するものでした。
宣孝は以下のように主張しています:
「つまらないことだ。清き衣を着て参詣しても、大した御利益もない。権現さまも『必ず質素な身なりで参詣せよ』とはおっしゃらないだろう」
なんというか…平安時代という慣例とか風習に厳しかった時代に、すごく自由な考え方ですよね。
確かにそうだけどね…それで神の逆鱗に触れたらどうするんだ?とは考えなかったのか?とタイムマシンに乗って聞きに行きたいものです。

宣孝の派手な服装

宣孝さんは実際にはどんな服装だったのでしょうか?
宣孝は自身の主張をまげることなく、こんな姿で行ったようです。
濃い紫の袴
白い狩衣
山吹色の派手な衣

息子・隆光の服装

宣孝の息子・隆光も同様に派手な服装で参詣しました

青色の狩衣
紅の衣
乱れ模様をすりだした袴

周囲の反応

この派手な服装は当時の人々に驚きを与え、「このお山で、このような姿の人を見たことがない」と評されました。
それは眉を顰める感じだったのかそれがわからないので気になるところです。

枕草子ではこのように表現されています。

『枕草子』における藤原宣孝の派手な衣装での御嶽詣のエピソードは、第114段「あはれなるもの」に記されています。

「右衛門佐宣孝という人は、『つまらないことだ。ただ清浄な着物を着て参詣すれば、何の問題があろうか。まさか「粗末な身なりで参詣せよ」とは、御嶽の蔵王権現は決しておっしゃらないはずだ』と言って、三月の末に、紫のとても濃い指貫に白い狩襖、山吹色の驚くほど派手な色の衣などを着て、息子の隆光の主殿亮である人には、青色の狩襖、紅の衣、まだら模様を摺り出してある水干という袴を着せて、連れ立って参詣したのを、御嶽から帰る人も、今これから参詣する人も、珍しく奇妙なこととして、『昔からこの山でこんな装束を着た人を、全く見たことがなかった』と、あきれ返った」

この記述は、宣孝が慣習に反して派手な衣装で御嶽詣を行った様子を生き生きと描写しています。

御嶽詣でのことは評価しても宣孝の事はさらっとした表現で終わっていたので、その辺りがちょっとウケてしまいました。

それでも、清少納言は、この行動を珍しく奇妙なものとして記録しており、当時の人々の反応も含めて詳細に描写しています。

御嶽詣での結果:藤原宣孝の場合

興味深いことに、宣孝はこの参詣の後、筑前守に任命されました。
これは、服装がどうでもその参詣の重さやかなうかは変化なし!という彼の行動が正当化されたかのようですね。

藤原宣孝の御嶽詣の後の経歴についてはこんな感じだったみたいです。

筑前守への任命

正暦元年(990年)の御嶽詣の直後、同年6月10日頃に筑前守に任命されました。これは派手な服装で参詣したにもかかわらず、むしろ栄転したと評判になりました。

太宰大弐の兼任

筑前守の後、太宰大弐を兼任しました。太宰府は九州全体を統括する重要な役職でした。

京官への復帰

その後、京都に戻り、右衛門権佐に任命されました。

山城守の兼任

右衛門権佐の後、山城守を兼任しました。

その他の役職

これらの他にも、備後守、周防守なども歴任したとされています。

賀茂祭での役割

宣孝は賀茂祭の舞人や、賀茂臨時祭では神楽の人長を務めるなど、宗教的な儀式でも重要な役割を果たしていました。

これらの情報から、藤原宣孝は御嶽詣の後も順調に官位を上げ、政治的にも文化的にも活躍していたことがわかります。
まぁ、これは彼の派手好きで豪放磊落な性格が、かえって彼の出世に有利に働いたのかもしれません。御嶽詣でだけの効果ではなかったのかもしれないですしてみませんか?おしかしたら
御嶽詣でで、紫式部ゆかりの二人の人物について書いてみました。
祈願することはその内容がどうあれ、その人には切実な問題です。
かなうかどうかはわからないけれど、信仰の気持ちをもって詣でることは今も昔も変わりはないですね。

これを読んだみなさんも金峯山詣でをしてみませんか?
もしかしたら願いが叶うかも?