歴史の一歩
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人物・平安時代

藤原伊周と藤原道長の権力闘争!なぜ伊周は失敗したのか?

平安時代中期、藤原氏の権力闘争の中心となった藤原伊周と藤原道長。

叔父と甥の関係でありながら、激しい対立を繰り広げたこの二人の権力争いは、平安貴族社会の複雑な人間関係と権力構造を表しています。

才能豊かで野心に満ちた伊周は、なぜ最終的に道長に敗れ、失脚してしまったのでしょうか。

ここでは、伊周の性格や行動、そして道長との確執の経緯を詳しく解説し、伊周の失敗は何だったのか考えてみたいと思います。

華やかな宮廷政治の裏で繰り広げられた、平安貴族の熾烈な権力闘争の実態に迫ります。

藤原伊周の子孫はその後どうなったのか?その末裔たちの行方とは?藤原伊周は政治的に失脚しましたが、その血脈は意外な形で受け継がれました。娘たちを通じて皇族や有力貴族家系と結びつき、後の五摂家の源流となったのです。本記事では、伊周の子孫たちがたどった驚くべき運命と、彼らが日本の歴史に残した足跡を探ります。...

藤原伊周の複雑な性格

エリート一家の長男に生まれながら、なぜ失脚してしまったのか。
それは伊周の性格にも原因があるのかもしれせん。

子どもっぽさと明るさの共存

藤原伊周は、『大鏡』に「心が幼い人であった」と記されているように、子どもっぽい一面を持っていました。
同時に、父・道隆や妹・定子と同様に、冗談好きで明るい性格でもありました。
この特徴は『枕草子』にも描かれており、宮廷生活に華やかさをもたらしていたと考えられます。

父の道隆もイケメンで、性格も優雅な方だとされていましたし、母の高階貴子も宮中に務めて和歌や漢詩にも才能がある方だったようです。

華やかな暮らし、明るい家庭環境。

恵まれていますね。

しかし子供っぽさという裏にはその残虐性が書かれている場合があります。
そして周りが見えていなかった、お山の大将的な面が大いにあったと思っています。

自信過剰と軽率さ

父・道隆の後継者として、伊周は若くして高い地位に就いたことで自信過剰な面がありました。
2代目社長がなんの実力も人脈がないのに、高い役職についてしまった場合、会社を危機的状況に陥れる場合がありますが、伊周の場合もそれになるのではないかと思っています。

伊周の根拠のない自信と過去の栄光は時として軽率な行動につながり、993年の内宴で大臣の横に座ってしまうなど、周囲との軋轢を生む原因となりました。

勘違いもはだはだしく、それが周りの反感を買った面もあると思います。
その辺りを、父親の道隆も注意して行かなくてはならなかったんじゃないかと思いますが、できていなかったのは痛恨の極みですね。

伊周の才能と野心

父・道隆の関白を引き継げると信じていた伊周でしたが、その政治的な手腕があったのか否か…。
そして人一倍野心だけはあったようです。

政治的才能の評価

伊周の政治的才能は周囲から認められていましたが、その才能を適切に発揮できないことが多かったようです。
これは彼の性格的な特徴が影響していたと考えられます。

諦めの悪さと執着心

失脚後も何度も政界復帰を試みるなど、伊周には諦めの悪さが目立ちました。
この特性は、彼の野心の表れであると同時に、状況を冷静に判断できない一面も示しています。

伊周の人間関係における課題

伊周は若い時に内大臣という高い官職についていました。
その時に信頼できる仲間など横のつながりも特になく、また短慮な性格も災いしていたようです。

空気がよめない

儀式の内容などで他の公卿と意見が対立することが多く、自分の意見を押し付ける傾向がありました。
この態度が周囲からの反感を買い、政治的な孤立を招く一因となりました。

たとえば、993年の内宴での立ち振る舞いで、伊周は20歳で大納言に昇進した直後で調子にのっていたのか、大臣の横に座るという前例のない行動をとり、他の公卿たちの反感を買う結果となりました。
その辺りの空気を読むとか、顔色をみるとか、官僚として考えて行動することができないのは致命的です。
お父さんが関白だからって伊周がえらいわけではなく、しかも異例の出世で周りからは反感をかっていたのに、そのあたりの空気が読めなかったのは、本当に残念です。

感情的な行動と慎重さの欠如

感情的になりやすく、慎重さに欠ける面があり、これが後の失脚につながる一因となりました。
特に長徳の変における花山法皇襲撃計画は、この性格的特徴が極端に表れた出来事と言えるますよね。

大河ドラマ光る君へでは、弟の藤原隆家のせいになっていましたが、決して藤原隆家だけのせいではなく、伊周も十分やらかしています。
これらの性格特性が、伊周の栄光と転落の両方に影響を与え、最終的には道長との権力闘争に敗れる結果となりました。
何事も詰めが甘く、その先が見こせない考えの甘さは、性格的に甘ちゃんですね。

伊周はなぜ道長に負けたのか?

なぜ、伊周は道長に負けてしまったのか?
血筋も同じで、一時には伊周は道長よりも位がうえでした。
なのに、なぜ?って思いますよね。

政治的手腕の差=道長の周到な戦略

道長は着実に権力基盤を固め、娘の彰子を一条天皇の中宮とするなど、巧みな政治手腕を発揮しました。
一方、伊周は急速な出世に頼りすぎた面があります。

道長は、結婚相手でも政治でもすべて周到に計算してしまう超現実主義だったと思います。
これは道長という人が藤原兼家の息子に生まれながら三男に生まれ、そのままいけば出世には程遠い人生でした。
しかし、周到に結婚相手をえらび、根回しをしてきたという努力と涙の結晶に他なりません。

一方、伊周は生まれながらに摂政の長男としてスーパーエリートとして、そのレールが用意されていて、なんの苦労も知らずに育ってきました。
ほっといても出世するなら、努力もしないという典型的な例だったということだと思います。

同盟者の獲得=伊周の幼稚な性格

道長には姉の詮子(一条天皇の母)という強力な味方がいました。
これに対し、伊周は周囲との関係構築に苦心しました。

もしかすると苦心というかなにも考えていなかった可能性もあります。

なぜ道長が一条天皇の母である栓子に気に入られていたのかが不明ですが、これは道長の性格によるところも大きいでしょうね。
伊周のことは栓子はむしろ遠ざけていたところがあったのかもしれません。
このあたりは想像でしかないのですが、同じ兄弟でも気が合うあわないがあるので、そんな単純な理由だったのかもしれませんね。

伊周の性格的要因=軽率な行動

伊周は感情的になりやすく、慎重さに欠ける面がありました。
長徳の変における花山法皇襲撃計画はその典型例で、これが失脚の直接的原因となりました。

さきにも書きましたが、子供っぽく短慮な性格だったようで、、これが伊周の残念な一生を左右したのかもしれません。

外的要因

疫病の影響

995年の赤斑瘡(はしか)の流行で多くの公卿が亡くなり、伊周と道長が生き残りました。
これにより両者の対立が決定的となりました。
対立する対象が減ったことで、仲間が減った結果、伊周が体制が弱まったと考えられます。

時代の流れ

道隆亡き後、兄弟継承の慣例により道兼が関白となり、伊周の継承が困難になりました。
伊周は才能を認められながらも、性格的な欠点や政治的な未熟さ、そして時代の流れが重なり、最終的に道長に敗れることとなりました。
道長の周到な戦略と忍耐強さに対し、伊周の性急さと軽率さが際立つ結果となったのです。

短気は損気ということわざがまさしくピッタンコの現象です。

伊周が道長に仕掛けた攻撃の数々

伊周は実際にはどんな攻撃をしていたんでしょうか?

氏長者の所領帳をめぐる口論(995年7月24日)

995年の夏、藤原伊周と藤原道長が公の場で大喧嘩をしました。
原因は藤原氏のトップである「氏長者」の所領帳の所有権でした。
二人の口論は激しく、外まで声が聞こえるほど。周りの人たちも恐れをなすほどの大ゲンカだったんです。
これが二人の対立が表面化した最初の大きな出来事でした。

従者同士の乱闘(995年7月27日)

口論の3日後、今度は伊周の弟・隆家の従者と道長の従者が都の大通りで乱闘騒ぎを起こしました。
貴族同士の対立が家来たちにまで及んでしまったんですね。この事件で、二人の対立がますます深刻になっていったことがわかります。

道長の随身殺害事件(995年8月2日)

さらに1週間後、事態は最悪の展開を迎えます。
道長の従者である秦久忠さんが、隆家側の人間に殺されてしまったんです。
もはや単なる対立ではなく、人命に関わる事態にまで発展してしまいました。
この事件で、伊周と道長の関係は取り返しのつかないものになってしまいました。

道長暗殺計画の疑い(1007年頃)

伊周が失脚した後も、対立は続いていました。1007年頃、伊周と隆家が道長暗殺を企てているという噂が広まりました。
道長が金峯山に登る際を狙っていたとか。証拠はなかったようですが、この噂は伊周の道長に対する深い敵意を物語っています。

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道長と彰子、敦成親王への呪詛(1009年)

最後の決定打となったのが、この呪詛事件です。
伊周が道長とその娘の彰子、そして敦成親王を呪っていたことが発覚しました。

大河ドラマ35回でもその様子がありましたね。

みていて怖かったですが。

これにより伊周は完全に政界から追放されてしまいます。
もはや政治的な手段ではなく、呪いという超自然的な方法に頼るしかなかった伊周の絶望的な状況がうかがえます。
これらの事件を通して、伊周と道長の対立がどんどんエスカレートしていく様子がよくわかりますね。
最終的には道長の勝利に終わりましたが、平安時代の貴族社会の裏側にある激しい権力闘争の実態が見えてきます。

伊周の最後はどんな感じだった?

平安貴族のお騒がせ伊周はどんな最後だったんでしょうか。

死亡日時

1010年2月14日(寛弘7年1月28日)に37歳で亡くなりました。
時間まではさすがにわかりませんが、死亡日時がわかっているのはまだ幸せですよね。

死因とその時の状況

具体的な死因は明確には記録されていませんが、比較的若くして亡くなっていることから、何らかの病気であった可能性が高いと考えられています。

死亡時の状況

伊周は死亡時、正2位内大臣となり、なくなっていたようですが、その死亡時の詳細は見つけられません。
詳しい場所も不明で、おそらく京都私邸だったでしょう。
悲しいことにそのお墓も不明で、どこに埋葬されたかもわかっていません。

歴史的影響

伊周の死は、藤原道長の権力基盤をさらに強固なものにする結果となりました。
伊周の死は、彼の波乱に満ちた人生の象徴的な終わりとなり、平安時代の政治史における一つの転換点となりました。

まとめ

伊周の一生はイケメンで和歌や漢詩の才能があったとつたえられています。
しかし、その自らの性格や行動で悲劇の人として描かれることが多いようです。

大河ドラマ光る君へで、もう少しで他界する伊周。
そんな最後として描かれるのか興味がありますね。