敦康親王はなぜ皇位継承できなかったのか…。
光る君へを見ている方はその気持ちがふつふつとわいてくるのではないかと思います。
祖父、母、伯父を次々となくし、本来ならば皇位継承権第一位となるべき敦康親王。
しかしそんな彼を守ろうとしたのは藤原彰子。
敦康親王と藤原彰子は継母、継子の関係でありながら、深い絆で結ばれ、彰子は敦康親王を実の子供のように、またそれ以上に大事に接していました。
皇位継承も藤原彰子は敦康親王にすべく動きますが。。。歴史はうまく進んではくれませんでした。
そんな中で若くして敦康親王はお亡くなりになります。
なぜ敦康親王は東宮にもなれなかったのか。
そのことを今回はお話していこうと思います。
平安時代に母の力が失速するとこうなる・・という具体例だった
母の実家の力量でその子供たちの出世や嫁ぎ先がかわってくるのが平安時代でした。
敦康親王の皇位継承できなかったことはまぎれもなく定子の実家の没落と定子の死が原因でした。
しかしそれ以上に理由がありました。
定子が落飾後に出産した敦盛親王の立ち位置
定子は長徳の変で発作的に出家してしまいます。
そしてその間に定子は一条天皇の子供…敦康親王を身ごもり出産してます。
これは小右記にも「中宮が男子を産んだ。世に『横川の皮仙』と云う。(Wikipediaより)」とあります。
これは出家している女性が男性と逢瀬を重ね、身ごもったことへ対する陰口です。
つまり敦康親王は生まれながらにして皇位継承から遠ざかっていたと言えます。
道長の無言の圧力に勝てなかった
一条天皇の東宮選びは結局道長の外孫であり彰子の子供の敦成親王が東宮となります。
これは母の実家の力がとても強く、その道長の存在と影響力の結果だったと思います。
本来は一条天皇の意向でサクッと決めてしまえばいいと思いますが、現実はそうはいきません。
いかに天皇の力が弱く、藤原道長の力が強かったのかということがわかると思います。
それまでの慣習は第一王子が東宮になっていた
この敦康親王の処遇は珍しい事でした。
本来ならば第一皇位継承者であることは間違いありませんからね。
当時の人々はこの処遇に対して、同情的だったはずです。
じっさいに后から生まれた第一王子が皇位をつげなかたのは敦康親王だけです。
敦康親王はかわいそうなだけの人だったのか?
では敦康親王は誰からも愛されず不遇の人生だったのか?と思いますか?
それは違います。
かれは実母との別れは早かったのですが、彼を愛してくれる人はちゃんといました。
藤原彰子という存在
敦康親王は母・定子死後、母の妹の御匣殿(みくしげどの)が育てていましたが、この女性も一条天皇の寵愛を受けて側室になります。
そのことで、彰子の養子となります。
このことは道長の配慮とも言われています。
彰子は真面目な性格だったし、正義感が強く、さらに愛情が深い女性だったようです。
また彰子の母、倫子もその育成には積極的に参加していたそうです。
韓国ドラマなどにありがちな、養子をいじめ倒すみたいな様子はなく、穏やかに過ぎていく日々だったと私は見ています。
意外にも藤原道長も育成に深くかかわっていた
これに関しては、養子になった時点では藤原彰子に実子はおらず、道長にしてみれば、彰子が子供を産まなかった場合の保険的な育成だったのではないかと思っています。
なぜならこの後に敦康親王の結婚の時(彰子にはこの時、王子が二人いた)に、道長は「ちょっと豪華すぎるんちゃう??」みたいなことを言っていたようですし、かかわったとしても、世間体と保険の要素がかなり強いです。
それでも、道長という権力者の庇護にあったのは、まだましな状況だったんじゃないかと思っています。
そして道長の加冠によって元服しています。
一条天皇から親王の位を授かっていた
親王と位というのは、天皇の子供として生まれたらすべて親王になれるわけではないのです。
天皇が親王と認めて、そのくらいを授けないと親王にはなれないのです。
これは定子への愛情のたまものでしたし、その後定子は内親王を出産時に難産がもとで他界してしまいます。
しかも一条天皇は体が弱く、病気がち。
一条天皇は敦康親王が12歳の時に亡くなってしまうのですが、その時にもくれぐれお頼むと、周りに頼みまくっていたようです。
親子関係が現代の親子関係から見ると希薄だったこの時代の天皇家において、少し異例な行動だったと言えると思います。
これは天皇の言葉というよりは父の言葉でした。
母親を亡くし、その家系も没落して、敦康親王からみたら叔父たちは乱暴者だったり、そんなざんねんな王子図鑑みたいな敦康親王を心底心配していたんでしょうね。
そんな父親の愛を受けていた敦康親王は幸せだったと思います。
貴族社会では肉親からの愛情を受けることができずに悲しい思いをしている人がたくさんいましたからね。
最終的に敦康親王はどんな暮らしをしていたの?
敦康親王は最終的に立太子はかないませんでした。
しかし、彼自身はそれを嘆いたか?といえばそうとも言えないのではないかと思います。
なぜなら、現代にも残る「権記」や「御堂関白記」「小右記」などには敦康親王のことをほめる記述がたくさん出てきます。
冠位からみる敦康親王のこと
まず敦康親王の冠位は「一品准三宮式部卿」となっています。
一品とは皇族がうける最高位の位です。
これは皇位継承できなかった代償だったのではないかと思います。
なぜなら、一品親王は二品をうけてから20年後に受けられる地位で、これを敦康親王が受けたのが12歳という若さで叙されるのは王位継承できなかったお詫びの印ってところですね。
しかしこれも、敦康親王のお人柄にあったと思います。
敦康親王は穏やかな人物だったようで、公卿の日記などにはその記載もあります。
そういう人柄が本来なら、まかり通らない冠位(12歳で一品)でも、許されてしまっていたのではないかと思います。
風流に生きていた敦康親王
立太子はかなわなかったからなのか、もともとだったのか、敦康親王は風流に生きた人物だったようです。
これは私の推察ですが、道長対策だったのはないかと思っています。
賢い様子が道長に見てとらえたら、身の危険が迫るでしょうからね。
身を守るには、政治には興味がありませんよ…とうスタンスを取り続ける必要があったせいではないかと思います。
私がこのように思うのは「御才(ざえ)いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」」という大鏡の記述です。
人品卑しからず、才能もあった。というこの内容は大鏡だけではなく、公卿の日記にも散見するようです。
その人物が、毎日、歌合せや作文会・歌合・法華八講を催し、大井河で川遊びなどをしていた様子などの記載があります。
政治の才能があって、人物も優れているのに、風流に生きるのは、どんな気持ちだったんでしょうね。
その辺りの事を思う時、胸がつぶれそうになくらいお気の毒になります。
敦康親王の死因は?
実はこれは病だったとしかわかっていません。
どんな病だったのかさえも記載がないようです。
このあたりの公卿の日記はごっそりと抜け落ちていて、日記自体がないんですね。
あるのは小右記に「危篤になり、出家して、お亡くなりになった。」という記載のみです。
もしかしたら天皇になっていたかもしれない王子が、この記載だけで終わってしまうのはなんともかわいそうでなりません。
まとめ
天皇にはなれませんでしたが、敦康親王は
生きているうちに出家されることもなく
政争でまきこまれて、殺される事もなく
風流に行き、冠位も高く
過ごすことができた
のだから、悪い人生だけだったといいわけではなくてよかったな…と思います。
道長が暗躍していたのは事実ですが、直接下されたむごい仕打ちもなく、そのあたりはよかったなぁと思います。
しかし肉親の幸薄い印象はぬぐえません。
私にも家族がいますから、そのあたりはいろいろ複雑な思いです。
これからも「光る君へ」で敦康親王を応援していきましょう。