大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で注目を集める徳川家基。彼は、10代将軍・徳川家治の嫡男として生まれ、将来を嘱望されながらも、わずか18歳でこの世を去った悲劇の若君です。
もし彼が将軍になっていれば、江戸の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
本記事では、家基の生涯を辿りながら、彼が巻き込まれた事件や暗殺説の真相に迫ります。
もちろん幸田サバ的暗殺説の真犯人を公表したいと思います。

徳川家基ってだれ?
徳川家基は、江戸幕府10代将軍・徳川家治の嫡男です。
1762年(宝暦12年)に生まれ、幼少の頃から聡明で文武両道に秀でていたと言われています。
しかし、1779年(安永8年)に18歳という若さで急逝し、その死は幕府に大きな衝撃を与えました。
徳川家基という「家」の名前をもらいながら、将軍になれなかった唯一の人です。
そのため、名前があまり知られることなく、歴史の陰にひっそりと隠れてしまった人です。

徳川家基の生涯
生い立ちと家族
1762年(宝暦12年)、徳川家基は10代将軍・徳川家治と側室・知保の方(ちほのかた)の間に生まれました。
お知保の方という人は田沼意次の推薦で側室となった方です。
その後、大奥女中の願いにより、男子のいなかった御台所・倫子の養子となりました
父・徳川家治は、正室との間に女子しか生まれなかったため、家基の誕生は待望の嫡男誕生でした。
これは徳川家治にとってどれほどの期待だったかと想像するとその後の家基の死はその悲しみのふかさは計り知れません。
幼少期から将来を嘱望されるまで
家基は幼少の頃から聡明で、文武両道に秀でていたと言われています。
2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、奥智哉さんが徳川家基を演じることが発表され、話題となっています。
そのInstagramでは奥智哉さんがりりしく弓を弾いている姿が印象的でした。
1769年(明和6年)には、父・家治の後継者として江戸城西の丸に入り、周囲からの期待を集めました。
わずか七歳で英才教育をうけていたと考えられています。
周りからの期待を一身にうけて、そして家基本人もその才能を発揮していったんですね。
18歳という若さでの死
1779年(安永8年)、家基は18歳(実年齢は16歳)という若さで急逝しました。
その死因については諸説あり、公式には病死とされていますが、毒殺説も根強く残っています。
家基という人の歴史的位置
徳川家基は、徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながらも将軍職に就けなかった人物として知られています。
そのため、「幻の第11代将軍」とも呼ばれています。
家基の死により、父・家治の血筋は断絶することとなりました。
これは、その後の幕府の政治にも大きな影響を与えたと考えられます。
徳川家基の人物像
優れていた点
家基は、聡明で文武両道に秀でていただけでなく、政治にも関心を示し、当時の老中・田沼意次の政治に批判的だったと言われています。
これは早い段階で家基という通り名をさずかって、政治的に力をもっていたという点と、それなりの知識をもっていたからということだと思います。
家基自身もとても努力していたし、青年の潔癖さを併せ持ち、田沼意次に意見していたんだと思います。
周囲からの評価
家基は、周囲から次期将軍として期待されていました。
もし彼が将軍になっていれば、田沼意次の政治は大きく変わっていたかもしれません。
というのもこの後、家斉という一橋家からの養子で将軍になる人物がいますが、その家斉のしたことは子供を作っただけで、飢饉などの対策はほとんどしなかったといわれれいるからです。
もし家基が将軍になっていたら…。
タラレバなんですけど、ちがった歴史になっていたんじゃないかと思います。
徳川家基をめぐる出来事
田沼意次との関係
家基は、田沼意次の政治に批判的だったことから、田沼意次との関係が悪かったと言われています。
先にも書きましたが、家基の田沼批判は、田沼をよく思わない反対派の影響を受けていたと思います。
大人たちに毒されて、公平な判断ができなかったんじゃないかと思います。
巻き込まれた事件
家基の死後、田沼意次による暗殺説が囁かれるようになりました。
家基は田沼に殺されたという意見もあります。
しかし私の考えは違います。
徳川家基暗殺説の真相
暗殺説の内容
家基の死因については諸説あり、公式には病死とされていますが、毒殺説も根強く残っています。
1779年(安永8年)2月24日、わずか18歳(満16歳)で急逝しました。
鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然体調を崩し、3日後に死去したとされています。
田沼意次による毒殺説
この説は最も広く知られており、当時から噂されていました12。田沼意次が家基の将軍就任によって失脚を恐れたという動機が考えられます。大奥女中の間でもこの噂が広がっていたとされます3。
一橋治済による毒殺説
一橋治済が自身の息子である徳川家斉を将軍にするために家基を毒殺したという説も存在します。
実は私はこの説が一番有力だと思っています。
落馬事故説
ドイツの博物学者シーボルトが記述した説で、家基がオランダから輸入したペルシャ馬に乗って落馬事故を起こしたというものです。
しかし、この説は他の資料では言及されておらず、信憑性は低いと考えられます。
私はこの説は知りませんでした。
シーボルトと家基の生きた時代が合うのかな?と疑問に思っています。
急病説
単純な急病による死亡という可能性も否定できません。
鷹狩りの帰りに突然腹痛を訴え、数日後に亡くなったという経緯が記録されています。
若い家基が突然の腹痛で死亡って何だったのかな?と思います。
これらの説の中で、田沼意次による毒殺説が最も広く知られ、当時から噂されていたことから、比較的有力な説と言えます。
しかし、いずれの説も決定的な証拠に乏しく、真相は不明のままです。
家基の死が突然であったことや、政治的な利害関係が絡んでいたことから、様々な憶測を生んだと考えられます。
毒殺説の根拠としては、家基が田沼意次の政治に批判的だったことや、家基の死後に田沼意次が失脚したことなどが挙げられます。
しかし、毒殺説を裏付ける確固たる証拠はなく、真相は謎に包まれています。
真相はどうなのか?幸田サバ的考察
家基の死の真相は、現在も謎に包まれています。
しかし私は一橋家の陰謀だったんじゃないかと思います。
一橋治済という人は、最初は田沼意次とタッグを組みながら、家斉を将軍に据えた直後、田沼意次を失脚させています。
その後は松平定信(寺田心君演じています)を老中にすえるも、業績が振るわないとまた失脚させていたんです。
そのご影の将軍としてものすごい贅沢を好んでいたという点を考えると、一橋治済が裏で暗躍していたんだと私は思っています。
まとめ
徳川家基は、若くして亡くなったためにその生涯は短いものでしたが、その才能と人物像は多くの人々に語り継がれています。
大河ドラマ「べらぼう」では、家基がどのように描かれるのか、すごく楽しみです。