歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・鎌倉時代

北条高時ってどんな人?『逃げ上手の若君』と史実!を徹底解剖

アニメ・逃げ上手の若君の中で主人公の北条時行の父親であり、鎌倉幕府最後の執権として登場します。

その様子を見てどう思いましたか?

私には違和感しかありませんでした。

なぜなら、アニメの方は酒色にふけるというよりは精神を病んでいるようにも見えました。

その高時の様子は史実とは少し違う印象もあります。

いろいろとよくない言われ方をされている北条高時ですが。実際はどんな人物だったのでしょうか?

筆者の勝手な視点から導かれた高時像を書いていきます。

逃げ上手の若君・北条時行ってどんな人?人気の秘密を徹底解剖!北条時行は、鎌倉幕府滅亡という激動の時代を生き抜いた、魅力的な人物です。 漫画『逃げ上手の若君』で人気を集め、フィクションとしての側面...

北条高時、簡単な年表

高時はどんな人生を歩んだのでしょうか?

年号出来事詳細世の中の状況
1303嘉元元年12月2日、北条貞時(父)と覚海円成(母・安達泰宗の娘)の三男として誕生。父は第9代執権、母は安達氏の娘。鎌倉幕府は安定期。
1309延慶2年7歳で元服し、「北条高時」と名乗る。烏帽子親不明 (将軍の偏諱を受けず)
1311応長元年父・貞時が死去。9歳で北条得宗家を継承。父・貞時は39歳で死去
1316正和5年14歳で鎌倉幕府14代執権に就任。幕府内での権力闘争が激化。
1321元亨元年正室に安達時顕の娘を迎える。
1324正中元年正中の変が発生。高時派が勝利するが、幕府の権威は低下。御恩奉公の乱れ、幕府の財政悪化など、幕府の基盤が揺らぎ始める。
1331元徳3年元弘の乱勃発。後醍醐天皇が倒され、鎌倉幕府の権威は一時回復。後醍醐天皇による倒幕運動が活発化。
1333元弘3年新田義貞が鎌倉に攻め入り、幕府は滅亡。高時一族は東勝寺で自刃。各地の武士の反乱が相次ぎ、幕府の支配力が弱まる。

 

北条高時の生きた時代

北条高時が生きていたのは、鎌倉幕府が衰退し、滅亡に向かう激動の時代でした。
そんな中、北条高時は14歳で執権職を継いでいます。
今なら中学3年生か高校一年生くらいです。

しかも実父の貞時は高時8歳の時に亡くなっています。
自分を本来は守ってくれるはずの大人がいなくて、家督を継いだものの、その実態は周りの有力御家人にいいようにされるだけの傀儡(かいらい・お飾り人形)でした。

高時のお父さんの事

高時の父親は北条貞時です。

北条時宗を父に持ち、しかしその父も早死にしてしまいます。

家督を継いだのは14歳でした。

しかしこの方はなかなか強硬な方で、弱体化する幕府をなんとか立て直したいと懸命に動いた方でした。
そんな状態ですから、敵も多かったのです。
そんな中での若死になので、毒殺もあり得るよなぁ・・・って思ってみたりしています。

貞時は優秀だったとする声も多いのですが、晩年は酒浸りだったという話もあり、もしかするとアル中だった可能性も十分に考えられます。

高時の祖父であり、貞時の父は北条時宗で、元寇の役で蒙古軍を追い払ったとされる有能な人物でした。

そんな偉大な直系の先祖を持った子供や孫のプレッシャーを考えると酒浸りにもなってしまうのかもしれません。

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北条高時の不運な境遇

父親と同じく14歳で執権になった北条高時ですが、その実態は長崎円喜などの後内人のよって政治の実権は奪われていました。

貞時が得宗家の盛り返しを図ったものの、高時が実験を握ることはできず、鎌倉将軍同様に長崎円喜達のいいようにされていました。

信頼できる人もなく、することと言えば闘犬と田楽踊りを見るだけでした。

しかしそれはナンの言い訳にもならず、より一層人心は離れていく結果となったのです。

結局鎌倉幕府はなぜ滅びたのか?

鎌倉幕府は北条高時が無能だったことだけが原因ではありません。

その理由は?

御恩奉公の乱れの詳細

鎌倉幕府の報酬制度は、手柄を上げたら報酬として土地をもらえるという仕組みでした。

しかし、それが崩れる事件が起きます。

それはモンゴル軍からの攻められる、元寇の役です。

こちらから攻めていき、相手を負かしたのであれば、土地を恩賞として与えることができますが、攻め入られて戦には勝ったものの、御家人たちの犠牲はかなり大きかったにもかかわらず、恩賞を受けられない、土地をもらえないという結果になってしました。

御家人たちは困り果て、金貸しからお金を借り始めます。

借金が膨れ上がり、困窮する御家人が相当数増えるようになります。

徳政令の発布

その現状を見て、幕府は徳政令を発布します。

この時の執権は北条貞時でした。

内容としては、高利貸から借りたお金を、すべてチャラにしてなかったことにする制度です。

しかしこれによって、借金はなくなったものの、次は貸してもらえなくなりました。

するとさらにお金がなく、困窮するような御家人が増えました。

このことで、御家人たちの不満はピークになります。

現代の政治に似ていませんか?

私はこの様子って現代につながっていると思います。

不景気になると政治に原因を求めるんだなと感じてます。

2024年の現在、日本は不景気になり、政府はお金を支給することが多いですが、徳政令も借金をなくす…というお金を支給するような内容です。

いろいろと考えさせられます。

北条高時の最後にまつわるマル秘エピソード

北条高時はもともと体が弱く、武将としては覇気の乏しい人物だと思います。

もし、高時が織田信長のように外側にエネルギーの向くような人物であったなら、長崎円喜などを蹴散らし、自分に政権を奪いに行ったんじゃないと思うんです。

もちろん、長崎円喜らの一門を排除する動きもありましたが、それも失敗に終わり、なんだか基本的に弱い人でした。

そんな高時は闘犬や田楽踊りなどを鑑賞する内側に向かう性格だったことも鎌倉幕府が滅亡する原因になりました。

しかし、彼は彼なりに、幕府をよくしようと懸命だったことも史実には残っています。

普段は酒色にふけり、政治を顧みない愚鈍なトップでしたが、反乱がおきたら、それなりに動こうとしている様子が太平記などに散見されます。

なぜ愚鈍な面だけ強調されているのか?

現在の高時の評価は太平記がもとになっていると思っています。

北条家公式の史料が吾妻鏡なのに対して、太平記は足利尊氏側からの視点で書かれています。

敵である、その敵の本丸的な北条高時を貶めて、ディスるのは当然の事と言えます。

本当は大したことがないのに、愚鈍なトップぶりを書いていくことで、足利尊氏の鎌倉攻撃を正当化させる意図があったんじゃないかと思います。

北条高時の最後は…。

東勝寺にて北条一門で自害したということです。

その数なんと800名余り。

燃え盛る東勝寺の中で次々と自害しているという様子は、想像するのも恐ろしいです

そしてここで北条一門しかいなかったその自害の現場をなぜか太平記は伝えています。

そこには北条高時が自分で腹を切ることができず、人に腹を切られたという事でした。

どこまで落とされてるんだか…。

哀れとしかいいようがないですが、そんな言い伝えが残っています。

アニメの北条高時

アニメの北条高時を見ていると、愚鈍というより、精神やられてませんか?それともクスリやってない?ってききたくなるくらいのほうけぶりです。

アニメでの高時の登場は早々に終わっていますがから、何か策略があったか…どうかは不明です。

サバの考察

結局高時ってどんな人だったの?

という疑問が残ったと思います。

私の考察、考えた結果は

・病弱だった。

・父親を早くに亡くし、小さいうちに執権となったが、周りの大人たちに権力を奪われて実力を発揮できなかった。

・アル中だった。

・子供の将来、北条家の将来を高時なりに真剣に考えていた。

北条高時は何回も言いますが、哀れな人です。

たしかに酒色にふけり、闘犬や田楽に興じていた面もあります。

しかし彼をしっかりと養育して、教育し導く人間がいなかったし、権力を求めた長崎家などの者たちが鎌倉幕府をさらに弱めて、滅ぼしてしまったんだと私は思っています。

タラレバな考えですが、貞時がもう少し長生きして高時に教育を与えていたら歴史はかわってたんではないかと思うのです。

まとめ

 

北条高時の人生とそしてサバの考察はいかがでしたか?

逃げ上手の若君はまだまだ続きます。

みんなで応援しましょう。