逃げ上手の若君の中で極悪非道の裏切り武将として描かれる五大院宗繁。
彼は本当にゲス武将だったのでしょうか?
なぜそう言われているのか、考えてみたいと思います。
|
五大院宗繁は本当にゲス武将だったのか?
はっきりしっかりいいましょう。
五大院宗繁は真実のゲス武将です。
その理由は?
逃げ上手の若君でも描かれていましたが、自分の主君だった北条高時から鎌倉幕府滅亡時に長男北条邦時を託され落ち延びることをお願いされます。
そのことは太平記にも描かれています。
なぜ邦時は五大院宗繁に託されたのか?
五大院宗繁と邦時は一般的に言われているのが、伯父と甥の関係だったようです。
五大院宗繁の妹が高時の側室で、その子供が邦時だったということです。
だからこそ高時は大事な長男である邦時を五大院宗繁に託そうと思ったのです。
この時点で高時の周りに信頼できる人物が少なかったということでしょうね。
そして近い血縁の者に託したけれど、その五大院宗繁も褒賞と自分の身の安全を第一優先として邦時を新田軍に売ってしまいます。
この時邦時は9歳から10歳です。
小学3年か4年生くらいです。
もしかしたらもっとちいさかったかもしれません。
その時点でもゲスなのに、次の内容を見たら、よりゲス度が増します。
邦時と五大院宗繁の本当の関係とは?
実は、この二人の関係は伯父と甥ではなく、祖父と孫の関係だったかもしれないのです。
『系図纂要』という書物の北条氏系図によれば、五大院宗繁の娘が北条高時の側室となり、邦時が生まれたという説もあります。
つまり何度もいいますが、祖父と孫の関係でありながら、自分の事だけを考えて、孫を売り飛ばす極悪非道の五大院宗繁です。
邦時の最後の様子は…。
逃げ上手の若君では、邦時が鎌倉内で隠れているところを、五大院宗繁が新田軍に密告したようになっていますが、実際はあえて別行動で伊豆へ邦時を向かわせて、相模川のあたりで新田軍に捕まってしまいます。
その後鎌倉に縄できつく結ばれて馬に縛られて、護送され、刑死しています。
その姿を見た人々、またその様子を聞いた人々はあまりに哀れな様子に、悲しみの涙にくれていたそうです。
これは『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」に詳しく載っています。
太平記は足利家の立場から書かれていたため、北条家に対しては厳しく書かれていることが多いのですが、五大院宗繁のゲスぶりと邦時の哀れさや人々の様子を見ると、邦時も人々から愛されていたことがわかります。
まだあるゲス疑惑
五大院宗繁はかねてから新田勢とつながりがあったかもしれないという事です。
それは五大院宗繁がたやすく邦時の居場所を垂れこめた環境だたことにあります。
五大院宗繁は北条家とも縁が深く、五大院宗繁も敵方になります。
タレこむ前に宗繁自身がやれててしまうはずです。
なのに、下記にも書いていますが、新田義貞は世論が五大院宗繁の処刑を求めてその声が大きくなるまで処刑するつもりがなかったのです。
これは新田義貞にとって、邦時を捕縛し処刑することができた功労者だという位置づけだったのではないと思っています。
ゲス武将五大院宗繁の最後は?
逃げ上手の若君の中で、五大院宗繁の最後は時行が討っていますが、実はもっと哀れなものでした。
この不忠な行動を取った五大院宗繁は非難され続け、誰からも弁護されることはありませんでした。
この事態をいかに弁護する必要があるかと思いますが、新田義貞は世論の『欲心ニ義ヲ忘レタル五大院右衛門ガ心ノ程、希有也、不道也ト、見ル人毎一爪弾ヲシテ悪シカバ』という太平記の一説にもあるように、『欲にまみれた義の心を持たない五大院宗繁の心のほどは不忠であり、これを弾じる必要がある』として処刑しようとします。
五大院宗繁は逃げて諸国をめぐりますが、誰からも相手にされず非難されて、最後は乞食のようになり、餓死して死んだそうです。
まとめ
武士らしく死ぬこともなく、最後は餓死とはなんともみじめな死に方でしょう。
史上最悪のゲス武将にぴったりな死に方といえると思います。
もし、五大院宗繁が邦時を守って死んでいたら、私達の評価も違っていたはずですし、その最後の時も違っていたはずです。
人間やっぱり正しいことをしなくちゃいけませんね。
逃げ上手の若君をこれからも見て盛り上げていきましょう。
なにか感想やご意見をいただけたらうれしいです。
|