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その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・平安時代

菅原孝標女は平安時代のオタク少女!源氏物語loveの更級日記の作者とは

平安時代、物語に夢中になる少女がいました。

その名は菅原孝標女。

彼女が残した『更級日記』とは、自分の過ごした少女時代からなくなる寸前までおよそ40年間の自伝みたいなものです。

その中には源氏物語をはじめとする物語に憧れたり、その登場人物にわが身を置き換えてみたりと、かなりなオタクぶり。

その様子は推しを求めて専門店をうろつく現代人となんの変化もない様子です。

1000年の時を超えて、菅原孝標女の物語への情熱は、今なお多くの人々の心を捉えて離しませんし、私の心をとらえて離しません。

中流貴族の娘として地方で過ごした少女時代

菅原孝標女は、寛弘5年(1008年)に生まれました。
父親の菅原孝標は、かつては栄華を誇った菅原道真の子孫であり、藤原道綱母はおばにあたります。
父が上総介(かずさのすけ)として赴任したため、菅原孝標女は10歳頃から上総国(現在の千葉県中央部)で暮らしていました。
当時も異動がでたら、家族も一緒に地方に行くんですね。
お父さんの菅原孝標は「受領」という官職で現在なら知事職みたいな感じです。
当時は収入はそれなりに高く、お金に困る生活ではないですが、娯楽のない生活でした。

想像してください。

お金があっても欲しいと思うものが周りに無くて、活字に飢え、推しグッズも手に入らない生活。

残念でしかありませんよね。

『源氏物語』沼にハマった田舎の少女

地方での生活にもかかわらず、菅原孝標女は幼い頃から物語に夢中になりました。
ですが地方には本などなくて、口伝で伝えられる物語。
それは記憶なあいまいな物語を聞かされて、菅原孝標女はストレスたまりまくりです。
「ちゃんとした物語を読みたいっ!」と願い、仏像まで彫り出す始末。
その情熱は、現代のオタクたちが自分で推しぬいぐるみを作っちゃうとか、アクリルスタンドを作成注文しちゃうようなものです。
それにしても願う余り仏像作っちゃうって、意外に行動力あるし、器用ですよね。

『源氏物語』への愛着は並々ならぬものがあり、13歳で上京した際には、まだ荷物も解いていないのに「物語が読みたい」と母にせがんだほどらしいです。
これは現代のオタク女子が「推し」のグッズを求めて奔走する姿と重なります。

都に帰った菅原家での菅原孝標女は?

父の菅原孝標が上総の国の任官が終わり京へ帰ってきました。

仏像の効果があったのか、菅原孝標女の元に知り合いのおばさんから源氏物語の全帖が届きます。
よかったね…。

源氏物語を手にした菅原孝標女の反応は?

憧れの源氏物語を手にした菅原孝標女はどんな行動になったのか気になりますよね?
このことは更級日記にも書かれていて、その様子はこんな感じでした。

まず手にして「后の位も何にかはせむ」と思ったそうです。
これは「后の位なんて問題にならないわ、そんなものがあっても不要だわ」という意味合いでしょうか。
そしてこの後、なんと何日も食事もとらずに部屋(御簾)に閉じこもって一心不乱によみふけってしまいます。
そんな中で居眠りをしていたら、「夢にいと清げなる僧の黄なる地の袈裟着たるが着て、怒られたということを、更級日記に書いています。

しかし、そんな夢を見たよとかいてあるけど、その後も2次元loveぶりは健在でした。
三角関係の果てに、イケメンの貴公子に略奪婚されるという妄想をして過ごしていたそうです。

すごくオタクな気配濃厚です。

さらにおもしろいのは、そんな過去の自分(12歳くらい)に対して、「イタイな、私」って思っているという事が書かれていて、ダメージを受けていたようです。

理想の人生は物語の中に

『更級日記』には、菅原孝標女が『源氏物語』の登場人物、特に「夕顔」や「浮舟」に憧れていたことが記されています。
彼女は物語の世界に強く惹かれ、田舎暮らしの現実世界よりも物語の中に理想の人生を見出していました。

これは、フィクションや二次元の世界に没頭する現代のオタクの様子そのものじゃないですか?

現実と物語のギャップ

しかし、菅原孝標女は30歳を過ぎて結婚し、現実の厳しさを知ることになります。

物語と現実の違いを痛感した彼女の姿は、成長とともに理想と現実のギャップに直面する多くのオタクの経験と重なります。

平安時代のオタク文化

菅原孝標女の『源氏物語』への熱愛は、平安時代の地方においても「オタク文化」のような現象が存在したことをあらわしています。

彼女の物語への没頭、理想の人物への憧れ、そして現実との葛藤は、1000年の時を超えて現代のオタク女子の姿と驚くほど似ています。
菅原孝標女の生涯は、人間の文化的嗜好や情熱が時代や場所を超えて普遍的であることを示しています。

彼女の『源氏物語』への愛は、現代のオタク文化の源流とも言えるでしょう。

平安時代の地方官の娘と現代のオタク女子、一見かけ離れた二者の間に、こんなにも共通点があることは驚きであり、人間の本質的な部分は千年経っても変わらないのかもしれません。

菅原孝標女の結婚生活ってどんな感じだったの?

どっぷり源氏物語の沼にはまった、菅原孝標女は『更科日記』に過去の自分を恥ずかしがっています。

それは成長して結婚して現実社会の中でいろいろなことを経験して現実を知っていったってことじゃないかと思うんです。

その現実社会に引き戻された一番の重要事項って結婚だったんじゃないかと思います。

みなさんもどんな相手と結婚したか知りたくないですか?

結婚の概要

菅原孝標女は橘俊通(たちばなのとしみち)と結婚しました。

具体的には以下の点が分かっています:

結婚時期: 長久元年(1040年)頃、菅原孝標女が32歳頃に結婚しました。

子供: 寛徳2年(1045年)に一男(仲俊)と二女をもうけています。

夫の死: 橘俊通は康平元年(1058年)に死去しました。結婚生活はおよそ18年間続いたようです。

結婚生活: 『更級日記』には、結婚生活を経るなかで、しだいに現実に目覚めていった様子が描かれています。

夫の赴任: 34歳のとき、夫の下野国(栃木県)赴任に同行せず、再び宮仕えをしています。

このように、菅原孝標女の結婚生活は、彼女の人生における重要な転換点となり、物語世界への憧れから現実世界への目覚めを促す契機となったようです。

現代でも結婚すると、現実社会を実感していくものです。

私も経験がありますが、生活するってそういうことだなと思います。

結婚相手の調査書

橘俊通って人はどんなひとだったのか。

中流貴族の家に生まれ、着実に官位を上げていった人物だったようです。

菅原孝標女との結婚生活は約18年間続きましたが、その間に菅原孝標女は34歳の時に夫の下野国赴任に同行せず、再び宮仕えをしています。

なんでついていかなかったんでしょうね。

それは私の推察ですが、信濃と言えば、自分が幼いころに行っていた上総の国よりも山深く、都での生活を楽しんだ菅原孝標女には耐えられないことだったんじゃないかと思うんです。

また菅原孝標女は正妻、嫡妻ではなかったのかもしれませんね。

橘俊通には他にも妻がいて、その妻が橘俊通についていき、だからこそ菅原孝標女は宮仕えをしなくてはならなかったのかもしれません。

そして橘俊通は康平元年(1058年)10月5日に57歳で亡くなっています

信濃守に任ぜられてからわずか1年半後になくなっています。

菅原孝標女とは20歳ほどの年の差婚でしたから、橘俊通がなくなった時は30代後半だったということになります。

子育てもほぼ終わって、夫もなく菅原孝標女の人生は孤独だったとも伝えられています。

まとめ

夫が亡くなってから菅原孝標女は「更級日記」を書き始めたと言われています。

私には孤独になったからこそ、自分の人生を見つめて楽しかった日々を思いながらそれがいかに幸せだったかをかみしめる日々だったんじゃないかと思うんです。

それは現代人にも思い当たることのある行動ですよね。

菅原孝標女はどんな気持ちで書いていたんでしょうか。