歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・平安時代

藤原伊周の子孫はその後どうなったのか?その末裔たちの行方とは?

藤原伊周は平安時代の有力公卿として知られますが、その政治的影響力は長くは続きませんでした。

権力闘争に敗れ、失意のうちに生涯を閉じた伊周。

しかし、その血脈は意外な形で受け継がれ、後の日本の歴史に大きな影響を与えることになります。

直系の子孫は政界から退いていきましたが、娘たちを通じて皇族や他の有力貴族家系と結びつき、さらには地方の武士団にまでその血が及んだとされています。

本記事では、藤原伊周の子孫たちがたどった驚くべき運命と、彼らが日本の歴史に残した足跡を探ります。

父祖の悲劇を背負いながら、どのように生き抜いたのか。

栄光と没落を繰り返した藤原氏の系譜をたどり、隠された歴史の真実に迫ります。

藤原伊周と藤原道長の権力闘争!なぜ伊周は失敗したのか?藤原伊周と藤原道長の権力闘争!おじとおいが争った政争は結果的におじである藤原見道長が勝ちました。大河ドラマ光る君への中で伊周の零落ぶりが痛々しいですが、そうなる原因はなんだったのか・・・。サバなりにかんがえてみました。...

藤原伊周の息子たち

失意のうちに死亡した伊周。

その直系男子はどのような人生だったのでしょうか。

長男・藤原道雅

道雅は伊周の正室である源重光の娘との間に生まれた長男です。
父の失脚後も官位を与えられ、非参議の左京大夫という地位に就きました。
しかし、父のような高い地位には就けず、天喜2年(1054年)に出家し、政界から退きました。

次男・藤原顕長

顕長は伊周の側室である左衛門命婦(源致明の娘)との間に生まれた次男です。
父の失脚の影響を受け、目立った経歴を残していません。
具体的な官位や役職についての記録は乏しいです。

死亡時の年月日などもわかっておらず、伊周の一家が零落していたことがわかります。

道雅の息子たち

伊周の長男、道雅には2人の息子がいましたが、二人とも僧侶となりました。
二人とも現在に名前は残っていません。
華やかな藤原北家の流れをくむものだちが名前もわからないままというのは諸行無常を感じます。
長男、次男ともに名前や具体的な経歴は不明ですが、僧侶となったと言われいます。

伊周の男子たちの人生は、父の政治的失脚の影響を強く受けたようですね。
長男の道雅は一定の地位を得ましたが、父のような高位には就けず、最終的には出家しました。
次男の顕長や孫たちについては、目立った活躍の記録がなく、政界から遠ざかっています。
伊周の直系の男子子孫たちは、政界での影響力を失い、中には僧侶となって俗世を離れた者もいました。
これは、かつて権力の中枢にいた伊周の家系の直系子孫が、政治的には表舞台から姿を消していたということですね。

藤原伊周の娘たち

では娘たちはその後どうなったのでしょうか。

伊周の娘(名前不詳)

母は伊周の正室である源重光の娘です。
何と伊周の政敵の道長の子、藤原頼宗と結婚しました。
この娘と頼宗の間に生まれた子どもたちが、後に重要な役割を果たします。

名前さえも残っていません。

どんな人生だったのか、想像するしかないですが、実家の力が弱くなってしまった伊周の娘は肩身の狭い思いをしていたんじゃないかと思います。

物心ついてから、伊周の流罪などを目の当たりにしていた伊周の娘ですが、辛い一生じゃなかったことを願うばかりです。

延子(のぶこ)

伊周の娘と藤原頼宗の間に生まれた娘で、伊周の孫娘にあたります。
後朱雀天皇の女御となりました。
これは藤原道長の影響力を残した結果だと言えますね。
禎子内親王を生み、その後脩子内親王(一条天皇の娘)の養女となりました。

昭子(あきこ)

延子と同様に、伊周の娘と藤原頼宗の間に生まれた娘で、伊周の孫娘です。
後三条天皇の女御となり、輔子内親王を生みました。

その他の娘たち

伊周には他にも娘がいたと考えられますが、具体的な情報は残っていません。

伊周の娘たちは、直接天皇の后妃にはなりませんでしたが、その子どもたち(伊周の孫娘たち)が天皇の女御となり、皇女を生むなど、重要な役割を果たしました。
これにより、伊周の血筋は皇室と深く結びつき、その影響力を維持し続けました。
また、伊周の娘が藤原頼宗と結婚したことで、かつての政敵であった道長の家系とも血縁関係を持つことになり、伊周の孫の延子と昭子はここで伊周の血脈を後世につなげていきます。

五摂家とのつながり

藤原伊周の血統が五摂家に伝わった経緯は、歴史の皮肉…諸行無常を感じさせます。
伊周は政治的には失脚しましたが、その娘の一人が政敵だった藤原道長の子、頼宗と結婚し、この結婚は、かつての敵対関係を超えて二つの家系を結びつける重要な架け橋となりました。
この娘と頼宗の間に生まれた全子は、伊周にとっては外曾孫にあたります。
全子は成長して藤原師通と結婚しました。師通は道長の直系子孫で、当時の藤原氏の中心人物でした。
伊周の子孫が大きく立場が上向くのは、全子と師通の間に生まれたのが藤原忠実という人物がキーマンです。
忠実は伊周の玄孫(やしゃご)にあたり、後に五摂家と呼ばれる名門貴族の祖となりました。
五摂家とは、近衛、鷹司、九条、一条、二条の五つの家系を指し、平安時代後期から鎌倉時代にかけて朝廷で絶大な権力を持った家柄です。
伊周の血筋は娘たちは、自分の父を間接的に死に追いやった、かつての政敵の家系と結びつき、さらには公家社会の頂点に立つ五摂家の源流となりました。

政治の表舞台から退いた伊周でしたが、その血脈は思わぬ形で受け継がれ、長きにわたって日本の歴史に影響を与え続けることになったのです。
これは、一度は権力を失った貴族の血筋が、世代を超えて再び栄華を取り戻すという、歴史の面白さといえますね。

五摂家の主な有名人物

近衛家

近衛前久:(このえ さきひさ、1536-1612)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍しました。
生涯は波乱に満ちており、公家でありながら武家社会に深く関わった特異な人物で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という有名な武将のみならず、いろいろな武将や大名などと親交があったようです。
また19歳の若さで関白になったり、娘の前子を後陽成天皇の女御として入内させて、後水尾天皇の母となり、前久は天皇家の外戚になるなど、破天荒といわれた人物でしたが、私は家の再興をかけて、公家、武家双方にはたらきかけた、バランスのいい人だったと思っています。

近衛信尹:(このえ のぶただ、1565-1614)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、近衛家18代当主となっています。父親は近衛前久。書画に優れて、政治的には浮き沈みのある人でしたが、武家としての要素も強く朝鮮出兵を強く志願し、秀吉の関白就任を強く反対した結果秀吉に疎まれ、九州に流罪になるなど、流転の人生でしたが、子供がいなかったために、兄弟の前子の産んだ王子を養子に迎えたようです。そのためこの時より近衛家はただの五摂家ではなく皇別摂家となりました。
このことからもわかるように近衛信尹は浮き沈みの激しいジェットコースターのような人生だったと思います。

近衛文麿:(このえ ふみまろ、1891-1945)は、日本の政治家で、戦前・戦中期に重要な役割を果たした人物です。
五摂家筆頭の近衛家の第30代当主として東京に生まれています。
父は近衛篤麿、母は前田慶寧の娘・衍子。しかし両親との縁は薄く母を幼少期に父は14歳くらいで亡くなっています。
その後、政界で活躍して3回総理大臣になりますが、終戦の時に戦犯で裁かれるのを嫌い、1945年12月に服毒自殺をしています。
短期間に3回も総理大臣になるとは才能と家柄がものを言ったというか…。
最後が自殺いう残念な結末でも戦前、戦後に重要な役割をにないました。
というのも、近衛文麿がいなかったら、終戦にならなかったかもしれなかったのです。そういう意味でも重要な責務を全うしてくれた人でした。

九条家

九条兼実:(くじょう かねざね、1149-1207)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家政治家です。藤原北家の氏長者で関白を務めた藤原忠通の三男として生まれ、若くして右大臣に昇進するなど、順調なキャリアを歩み始めました。
しかし、平氏政権下では非協力的な姿勢を取ったため、政局の中枢から疎外されることとなります。
源平合戦の際も中立的立場を維持し、政治的影響力をほとんど持てない状況が続きました。
これが鎌倉時代には良い方向に動きます。
源頼朝の支持を得て政界復帰を果たし、摂政、関白、氏長者となり、公家政権の頂点に立ちました。
頼朝と協力関係を築き、朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役として重要な役割を果たしました。
この役目は鎌倉時代が滅亡するまで続きます。
東大寺復興事業などで頼朝と盟約を結び、公家政治と武家政治の過渡期において重要な存在となりました。

また、兼実は1164年から1200年にかけての詳細な日記『玉葉』を残しており、これは平安時代末期から鎌倉時代初期の政治、社会、文化を知る上で極めて重要な歴史資料となっています。

九条兼実は、平家と対立している時に書いた玉葉が私たちにその当時の事を教えてくれる貴重な資料を残してくれました。

九条道家:(くじょう みちいえ、1193-1252)は、鎌倉時代前期の有力公卿で、九条家の3代当主として大きな影響力を持った人物です。つまり兼家の孫ですね。
道家は、祖父の九条兼実に愛され、幼少時から優遇されました。
別格扱いだったようで、1203年に元服すると同時に正五位下に叙任され、その後も急速に出世を重ねていきました。1221年の承久の乱後、摂政と氏長者の地位に就き、朝廷の最高権力者となりました。
政治面では、鎌倉幕府との関係を重視し、四男の頼経を将軍として鎌倉に送り込むなど、公武の橋渡し役として活躍しました。
武家とだけではなく、公家同士のつながりも最重要視していて、幕府派の西園寺公経と提携して朝政を進め、関東申次として朝廷と幕府の連絡役も務めました。

文化面でも大きな貢献をしています。その辺りは伊周の血を引いているといえますね。
祖父兼実が創始した九条家の歌壇を引き継ぎ、歌合を主催するなど和歌の振興に努めました。
新三十六歌仙の一人に数えられ、勅撰和歌集にも多くの歌が入集しています。
宗教面では、明恵上人に帰依するなど篤い信仰心を持ち、東福寺や光明峯寺を創建。
特に東福寺は九条家の菩提寺として建立され、道家の信仰と権力の象徴となりました。
東福寺はきれいなお寺で、もみじで有名なお寺です。
1238年に出家して法名を行恵と改めましたが、その後も禅閤(前関白)として政治的影響力を保ち続けました。
しかし、幕府との関係悪化により、晩年は政界から退くこととなりました。
道家の日記『玉蕊(ぎょくずい)』は、当時の公家社会や政治状況を知る上で貴重な資料となっています。
九条道家は、激動の鎌倉時代において、公家政治の中心として活躍し、文化・宗教面でも大きな足跡を残した重要なキーマンでした。

二条家

二条良基:(にじょう よしもと、1320-1388)は、南北朝時代の公卿、歌人、そして連歌の大成者として知られる重要な歴史的人物です。
どちらかというと政治よりも文化面で名を遺した人物です。
まぁ、公家の名前を残すのも難しい室町時代ですからね。仕方ないのかもしれません。

政治面では、北朝に仕え、太政大臣、摂政、関白といった最高位の官職を歴任し、特筆すべきは、通算5度にわたって北朝4代の天皇の摂政・関白を務めたことです。
激動の南北朝時代において、足利将軍家と協力しながら朝廷の危機に対処し、公武関係の新たな局面を切り開きました。
文化面では和歌、特に連歌の分野で大きな功績を残しました。
最初の勅撰連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、連歌の表現形式を確立して芸術的に高めることに尽力しました。これは和歌や連歌の知識が豊富だったからできたことですね。
また、猿楽(能の前身)にも深い関心を持ち、世阿弥を見出したとされています。
二条良基は、政治と文化の両面で活躍し、室町文化の基礎を築いた人物です。
彼がいなければ能も成立しなかったかもしれません。
日本の中世文化の発展に大きな影響を与えました。

一条家

一条兼良:(いちじょう かねよし/かねら、1402-1481)は、室町時代から戦国時代初期にかけて活躍した稀有な人物です。
1402年に関白左大臣・一条経嗣の六男として生まれ、若くして公卿となり、やがて従一位・摂政、関白、太政大臣という朝廷の最高位にまで上り詰めました。
政治家としての兼良は、1440年に初めて関白に就任し、1455年頃には改元にも強い影響力を発揮するなど、朝廷内で重要な役割を果たしました。
しかし、1467年に応仁の乱が勃発すると、政治的には不遇の時期を迎えることになります。
一方で、兼良の真価が最も発揮されたのは学問の分野でした。
古典学者として高い評価を受け、将軍家の歌道にも参与するなど、文化面でも大きな影響力を持ちました。
特に『日本書紀纂疏』の著述や『尊卑分脈』の編纂への関与、『源氏物語』の注釈書『花鳥余情』の執筆など、古典研究に多大な功績を残しました。
兼良は「桃花坊文庫」と呼ばれる個人の書庫を所有するほどの学識の持ち主でしたが、応仁の乱でこの貴重な文庫は焼失してしまいます。
しかし、そのような逆境にもめげず、生涯を通じて学問探究に励みました。
1481年に79歳で生涯を閉じるまで、一条兼良は政治家としてだけでなく、文化人として優れた学者であり、古典研究に大きな影響を与え続けました。
特に『源氏物語』研究において重要な貢献をした彼の業績は、後世の日本の古典学の発展に重要な礎を築いたのです。激動の時代にあって、政治と学問の両面で卓越した才能を発揮した一条兼良は、まさに室町時代を代表する知性の一人と言えるでしょう。

鷹司家

鷹司政通:(たかつかさ みちみち、1784-1868)は、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した公卿で、五摂家の一つである鷹司家の当主として、長きにわたり朝廷の中枢で重要な役割を果たしました。
鷹司政通は文化面ではあまり名前が出てこなくて、THE官僚って感じの雰囲気です。
しかも、写真も多く残っているので、身近というか知ってる顔って印象です。
1784年に生まれた政通は、若くして公家社会の頂点に立ち、特に1828年から1858年までの30年間、関白として朝廷の意思決定に大きな影響力を持ちました。
政通は開国派として知られ、欧米列強との条約締結に前向きでした。
これは当時の孝明天皇の「攘夷」の立場とは対照的で、彼は深い歴史観を持ち、特に律令制の形成・確立期の歴史に強い関心を示し、これを朝廷運営の模範として考えました。
つまり昔ながらの天皇と、貴族のあり方を戻したいと考えていたんですね。
朝廷の復興と権威の強化に尽力した政通は、天皇号・漢風諡号の再興などに関与し、儒学の理念や中国の君主像を参照しながら天皇権威の荘厳化を図りました。
また、朝廷の財政支援を幕府に求めるなど、朝廷と幕府の関係調整にも努めました。
政治手法としては、廷臣の意見を聞くなど形式的には民主的な姿勢を見せつつ、実際の意思決定は自身に集中させるという、(すごくやなやつ)このあたりは相当にワンマンだったようで、この政治手法や思想は、幕末から明治維新にかけての朝廷の在り方に大きな影響を与えました。
写真を見るとすごくガンコジジイって顔で、私は好きになれそうにない顔です。

1868年に84歳で生涯を閉じるまで、鷹司政通は激動の幕末期において、朝廷の立場を強化しつつ、時代の変化に対応しようとした重要な人物でした。
彼の行動と思想は、日本が近代国家へと移行する過程で重要な役割を果たし、その影響は明治維新後も長く続いたのです。

五摂家の人物は、それぞれの時代において政治、文化、芸術などの分野で重要な役割を果たしました。
五摂家は長い歴史を通じて、日本の公家社会の中心的存在で、伊周と道長の子孫たちはちゃんと歴史に名を残しました。

まとめ・伊周へサバからメッセージ

伊周に言いたい。
「あなたは道長を政敵にして、攻撃しなくても、子孫がちゃんと名を残してくれてるよ。」って。
華麗なる一族だった、藤原伊周。
晩年は道長の下につくことを嫌い、政敵として、敵意満々だったかもしれないけど、その子ども達は家門を残すように、そして貴族社会の頂点にあり続けたんです。
もっとゆっくり人生を歩んでいたら、ぎすぎすした人生じゃなかったんじゃないかなって思うと、少し悲しいきもちになります。

伊周はたしかに、性格に難ありだったと思います。
行き当たりばったりの考えなしだったとも思っています。
それでも、自分の父親以上の存在であり続けようと努力をし続けたことはすごいと思います。
方向性の問題は別にしてね。

光る君への伊周死亡まであと少し。
みんなで伊周を応援しましょう!