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事件・平安時代

刀伊の入寇とは?平安時代最大の外敵襲来事件を徹底解説

平安時代、日本は比較的平和な時代を過ごしていたと思われがちですが、実は大きな外敵の襲来を経験しています。
鎌倉時代の元寇は有名ですが、それより前に私たちの先祖は未曽有の外的勢力からの攻撃を受けていました。
それが「刀伊の入寇」です。
この事件は、平安時代の軍事体制や政治構造に大きな影響を与えた重要な出来事だったようです。

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刀伊の入寇とは

刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)に起こった平安時代最大の外敵襲来事件です。
「刀伊」と呼ばれる集団、主に女真族(後の満州族)の一派が、日本の西部地域を襲撃しました。
壱岐や対馬、北九州の周辺を襲ったようです。

襲撃の経緯と規模

1019年3月末から4月にかけて、約50隻の船団(推定3,000人規模)が日本の西部地域を襲撃しました。

主な被害地域こんな感じでした。
対馬:36人殺害、346人拉致
壱岐:148人殺害(国司の藤原理忠を含む)、239人拉致
九州本土:筑前国や博多などが襲撃を受けたとされています。
拉致人数は1300人ほどだったと言われています。
壱岐や対馬など、島民全員が連れ去られたという事になるようです。

日本側の対応

大宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家が指揮を執り、日本側の防衛を指揮しました。
博多の警固所では大蔵種材らが活躍し、刀伊軍を撃退することに成功しました。
実はこの時、宮廷ではこの事案についてうまく機能しておらず、誰もが遠い国も事…くらいでしか考えていなかったようです。
そんな中で、藤原隆家が陣頭指揮をとり、武士集団とともに戦ったことで、撃退することができたんです。

平為賢の活躍

この事件で特筆すべき人物の一人が平為賢です。
平為賢は「散位平朝臣為賢」として大きな功績を上げました。
彼の武勇と戦略的思考が、日本側の勝利に大きく貢献したとされています。

刀伊の入寇で日本側が失ったものは何か

人的被害

死者:364名が殺害されました2。
拉致被害者:1280名が拉致されました2。内訳は以下の通りです:
対馬:346人(男102人、女・子供244人)2
壱岐:239人1
重要人物の死:壱岐島の国司である藤原理忠が殺害されました1。

物的被害

家畜:355頭の牛馬が失われました2。
対馬銀山:焼損しました2。
建造物:多くの建物が放火により焼失したと考えられます1。

地域社会への影響

人口減少:壱岐島では残った住民がわずか35名になるほどの甚大な被害を受けました2。
社会不安:沿岸部の住民に大きな恐怖と不安をもたらしました。
国家の威信

刀伊の入寇の歴史的意義

対外危機意識の高まり

平和な時代と思われていた平安時代中期にも、外敵の脅威が存在したことを示す重要な事象となりました。
それまで外敵との戦いに対して、経験がなかった私たちの祖先たち。
海からの敵を迎え撃つ術を平安時代の人たちは身に着けてはいませんでした。

軍事体制の見直し

この事件を契機に、日本の防衛体制が弱いことが判明しました。
その結果軍事体制の見直しが進められました。

地方武士団の台頭

中央の貴族だけでなく、地方の武士団の重要性が認識されるきっかけとなりました。
その代表的な人物が平為賢の存在です。
平為賢はこの恩賞によって九州の領土を受領しています。

元寇への前触れ

この事件の後、約250年後の元寇(蒙古襲来)の先駆けとなる事件として、歴史的に重要な位置づけにあります。
しかし、ほとんどの方はしらないと思います。
元寇の方があまりに有名ですからね。

刀伊の入寇が日本社会に与えた影響

結果的に刀伊の入寇は平安時代の人たちにどんな影響を与えたのか…。

軍事体制の強化

沿岸部の防衛体制が見直され、強化されていきました。
それにより武士の地位向上、外敵に対する実戦経験を持つ武士の重要性が認識され、社会的地位が向上していく結果になったようです。

中央と地方の関係変化

地方の防衛における地方武士団の役割が重要視され、中央と地方の力関係に変化をもたらしました。
なにより武士の力がこの後つよくなり、貴族社会の繁栄にかげりが見えてきます。
力こそ正義とでもいうような雰囲気です。
それまでは貴族同士の戦いで、武士が使われる事もあり、暴力沙汰もありましたが、力がなければ通らない世の中に傾いていきます。
武家社会へと進んでいく事件だったんじゃないかと思っています。
武士がなければ国家は外敵からの脅威に打ち勝てない、そう実感していたのは事実だったでしょう。

実際に戦闘での使われた武器とは

日本は船上の敵にどのような戦いを仕掛けたのでしょうか。

鏑矢の仕様
日本側は船上の刀伊に対して、鏑矢で応戦したことが記録に残っています。
鏑矢はカブのような形をしていて、射ると大きな音をたてて、攻撃します。
それ自体には殺傷能力は乏しく、主に音を出して、相手に威圧感を与える武器でした。
しかし刀伊軍はその音になじみがなく、混乱の中で負けていったようです。
日本軍は相手を見事に撃退していったのです。

船団の攻撃

対馬や壱岐には優秀な船漕ぎもいました。
刀伊軍は50隻の船で襲ってきましたが、日本軍は38隻の船で応戦したと言われています。
船の数はすくないのですが、船の操縦はかなりだったようで、それも撃退に役にたったようです。

まとめ

刀伊の入寇は、平安時代の平和な表面下に潜んでいた外敵の脅威を明らかにした重要な歴史的事件です。
この事件は、日本の軍事体制や政治構造に大きな影響を与え、後の武士社会への移行を加速させる一因となりました。
平為賢のような武将の活躍は、この時代の変革を象徴する出来事であり、日本の歴史における重要な転換点の一つとして位置づけられています。