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人物・平安時代

【光る君へ】平為賢:刀伊入寇と平安時代の武士の成功者の素顔

NHK大河ドラマ「光る君へ」で注目を集める平為賢ですが、どれくらいご存じですか?
平安時代中期に活躍したこ為賢は、貴族社会から武家社会への移行期を生き抜いた、まさに時代の転換点を象徴する人物です。
刀伊の入寇での活躍や鎮西における平氏の基盤確立など、その功績は現代のビジネスパーソンにも通じる革新性と適応力を示しています。
平為賢はいかにしてキャリアチェンジしながら生き抜いたのか、現代に置き換えて考えてみます。
本記事では、神尾佑が演じる平為賢の生涯を現代的視点から解説し、平安武将の意外な素顔に迫ります。

平為賢という人

平為賢という人はどんな人だったのか?
いつに生まれて、死んだのはどこでいつだったのか…。
残念ながら詳しくわかっていません。

お父さんは平維幹、お母さんは大姫御前とか高階成順女と言われていて、驚くほど幼少期の記録が残っていません。
平為賢の名前が出てくるのは、この時以外にはあまりありません。
他にはこれより以前に東国の戦いで武将としての活躍しています。
平為賢は東国での戦いを経験した歴戦の兵として知られていて、『今昔物語集』には「伊佐ノ平新意能観」として登場し、その名を聞いただけで海賊たちが恐れて逃げ出すほどの猛者だったとされています。

この『能観』というのが為賢のことです。

なぜ能観と」言う呼ばれ方だったのかはわかっていません。

本当にわからない事づくしですが、歴史上に上がってくる人物というのは一部で、ほとんどの人物はその歴史の中に埋もれていたんだと思います。

さて刀伊の入寇での功績では、寛仁3年(1019年)に起こった刀伊の入寇の際、平為賢は「散位平朝臣為賢」として大きな活躍を見せました。

散位?

散位とは、官職はないものの、一定以上の位があったとされています。
一介の武士に過ぎなかった、貴族社会において、散位平朝臣とよばれていたのは周りから認められていた人物だったという事です。

大河ドラマ光る君への登場背景

平為賢の活躍した時期は、貴族社会から武士の世への移行期でした。

彼は藤原隆家と親交があり、隆家が太宰府に赴く際には従軍しています。

平為賢は忠誠、信義、献身にあふれ、藤原隆家の人柄に心酔していたとされ、武士としての理想的な姿を体現していたと考えられます。

ドラマの中での重要な影響とは?

平為賢の人物像は現代にも影響を与えており、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では神尾佑さんが平為賢を演じています。
ドラマでは、平為賢の武士としての生き方や、時代の変遷の中での役割が描かれる予定です。 平為賢は、平安時代中期における武士の台頭と平氏の勢力拡大を象徴する重要な歴史的人物として評価されています。

平為賢の人生を現代風に置き換えると?

平為賢を現代風に置き換えるとどういう人物になるのでしょうか?

キャリアチェンジの先駆者

武士とは貴族の下に仕える武士団。
もともとは腕っぷしのつよいならず者集団でした。
それがいかにして武士と手を取り合い力をつけていったのか。

それはまさしくキャリアチェンジの見本みたいなものですね。

平安時代の変革期を生きた武将

平為賢は桓武平氏繁盛流(常陸平氏)の出身で、武芸の道に生き暮らしていました。
汚れ役もたくさんあったでしょう。
それでも後世に名を残した一人です。
これは現代でいえば、伝統的な家業から新興産業へのキャリアシフトに相当します。
例えば、老舗企業の子弟がITベンチャーを立ち上げるようなものです。

危機管理のエキスパート

平為賢の最大の功績は、寛仁3年(1019年)に起こった刀伊の入寇での活躍です。
この活躍が平為賢のその後のこの外敵の侵入に対して、平為賢はその能力を現代に伝えています。

卓越した戦略と武勇を発揮し、大きな軍功を立てました。

これは現代でいえば、国家的危機に際して重要な役割を果たしたビジネスリーダーや専門家に匹敵するでしょう。

藤原隆家が大宰府で功績を上げてその後隆家は道長に認められて、出世しています。

そのことを考えると、平為賢の存在は大きく歴史を変えたともいえます。

現代でいうところのSPのような要人警護というのもあてはまりますね。

また刀伊の入寇での活躍は、現代のグローバル企業が直面する国際的な危機への対応に例えられます。
例えば、サイバー攻撃や国際紛争による事業リスクに対して、迅速かつ効果的に対処する能力を示したと言えるでしょう。
まさしく現代に教えられることがたくさんあるんじゃないかとも思えるのです。

新市場開拓者

平為賢は肥前国を賜り、鎮西(九州地方)における平氏の勢力拡大の礎を築きました。

これは現代企業の新規市場開拓や事業拡大戦略に匹敵します。

例えば、大手企業が新たな地域や分野に進出し、そこでの事業基盤を確立するような取り組みと言えるでしょう。

組織への忠誠と献身

『今昔物語集』に描かれる平為賢(伊佐ノ平新意能観)の姿は、東国での戦いを生き抜いた歴戦の兵であり、その名声は広く知られていました。

これは現代のビジネス界でいえば、長年の経験と実績を持つ経営者や専門家が、業界内で高い評価を得ている状況に似ています。

その評価があったからこそ、藤原隆家とのつながりがあったんじゃないかと思っています。

変革期のイノベーター

平為賢の活躍した時期は、貴族社会から武士の世への移行期でした。

これより200年ほど後、鎌倉幕府ができます。

その前に平清盛などが台頭してきますから、この平為賢が生きた時代はまさしく貴族社会が終わりゆく最後の時代でした。

これは現代社会における急速なデジタル化やグローバル化の波の中で、新たなビジネスモデルや技術を導入し成功を収める企業や起業家の姿に重ね合わせることができます。

平為賢の最大の功績『刀伊の入寇』って?

刀伊の入寇は、平安時代中期の1019年(寛仁3年)に起こった、日本への外国勢力による大規模な侵攻事件です。
平為賢はどんな事件を収めにいったんでしょうか。

どんな事件だったの?

侵攻者は「刀伊」と呼ばれる集団で、主に女真族(後の満州族)の一派と考えられています。

1019年3月末から4月にかけて、約50隻の船団(約3,000人)で壱岐や対馬周辺の島の島民たちや、九州ほくが殺害されたり、略奪されたりしました。

被害対馬: 36人殺害、346人拉致

壱岐: 148人殺害(国司の藤原理忠を含む)、239人拉致

九州本土: 筑前国や博多などが襲撃を受けました。

大宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家が指揮を執りました。

博多の警固所で大蔵種材らが活躍し、刀伊を撃退しました。

この時活躍したのが平為賢だったというわけです。

結果的に日本側は平安時代最大の海外からの襲撃事件を反撃して刀伊は撤退していきました。

略奪された人民は救出されたそうです。

歴史的にみると?

平安時代最大の対外危機とされています。

約250年後の元寇(蒙古襲来)の先駆けとなる事件でした。

地方武士団の台頭や、中央と地方の関係性など、日本の軍事・政治体制の変化を示す出来事として重要視されています。

この事件は、平和な時代と思われていた平安時代中期にも、外敵の脅威が存在したことを示す重要な歴史的事象です。

https://rekishinoippo.jp/heianjidai-toinonyuko-kaisetu

まとめ

平為賢はもしかすると大河ドラマがなければ、知られることのなかった人物だったかもしれません。

そういう人物を取り上げるとき、確実にその時を真剣に生きている人はいて、表舞台にいる人の役にたって活躍してそして真剣に生きて死んでいったんだと思うと、歴史というものの見方が変わってきます。

平為賢もそんな人物でした。

生没年も死んだ場所もわかっていません。

子孫が誰かもわかっていないのです。

それでも平為賢は存在して活躍していたんだと思いながらドラマを見てもらえたらいいなと思います。