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歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・平安時代

藤原賢子の生涯、紫式部の娘として生きた苦悩と栄光とは?

「源氏物語」の作者・紫式部の娘として知られる藤原賢子。
賢子さんのことをいう時、たぶんですが、紫式部の娘の…っていいませんでしたか?
華麗な母親の影に隠れがちですが、彼女自身も優れた歌人として活躍し、平安時代の宮廷に華を添えました。
むしろ、その当時としては、賢子の方が紫式部よりはるかに出世していたといえます。
なぜなら本名と思われえる名前が残っていることがその証明です。
彼女の人生は生まれた時からそれなりにエリートコースだったともいえるかもしれません。
彼女独自の才能や生き方を探ることで、平安時代の女性たちの多様な姿を知ることができます。

大河ドラマ光る君へで、明らかになっていくと思いますが、第34回の時点で紫式部のまひろは娘である賢子とその幼少期に一緒に過ごしてはいませんね。
これあ今後のドラマにどのような伏線になっていくのか、とても興味深いですね。
ともあれ、そんな賢子さんがどんな人生を歩んだと史実は教えてくれるのか、一緒に考えてみましょう。

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賢子さんの生涯と背景(999年 – 1068年以降)

藤原賢子は、寛弘4年(999年)ごろに誕生しました。
紫式部の生年は詳しくわかっていないので、これだけでもすごい事といえると思います。
父は藤原宣孝、母は紫式部という文学的に卓越した家庭に生まれ、平安時代後期の文化的・政治的環境の中で成長しました。

家系と教育

父:藤原宣孝 – 中級貴族で歌人として名高い
母:紫式部 – 『源氏物語』の作者として知られる文学の巨匠

このような環境で、賢子は幼少期から高度な文学教育を受けたと推測されます。
父親は賢子が3歳までになくなっていますが、当時の暮らしは紫式部の実家でくらしていました。
紫式部の父親…つまりおじいちゃんは藤原為時です。
とても文学関係では優秀な方でしたから、その家風として教育に熱心だったでしょう。
スパルタ的な教育というよりは、家の中に常に文学や書や和歌があったという環境だったと思います。

紫式部は賢子が7歳くらいには藤原彰子に仕え始めていますので、賢子にとっては母親がいない時期が長く、それはやはり賢子さんにはつらい時期だったんじゃないかと思うんですよね。
光る君へでは為時パパがすてきなおじいちゃんでいてくれていますが、やはりお母さんがいてくれなくて、寂しくて紫式部の書いた物語の原稿に火をつけちゃうくらいですから、その気持ちを思うと、胸が痛くなります。

宮廷での役割と影響力

乳母としての立場

1021年(14歳時)、賢子は後冷泉天皇の乳母として宮中に入りました。
平安時代の乳母の役割は単なる養育係ではなく、天皇の教育者かつ政治的助言者としての重要な位置を占めていました。
この立場は、彼女に宮廷内での大きな影響力をもたらしました。
つまりお母さんの紫式部より、かなり出世しちゃったってことなんですよね。
この辺りも、いろいろ伏線の想像が膨らみます。

政治的・文化的影響

賢子の宮廷での存在は、当時の政治的決定や文化的傾向に少なからぬ影響を与えたと考えられます。
特に、文学的素養の高さから、宮中の文化活動においても重要な役割を果たしたでしょう。
この辺りの史実はあまり残っていませんが、それだけの影響を与えたという事は十分に考えられます。

賢子さんの文学的業績

賢子さんは「大弐三位」という宮中の呼び名をもらって活躍しています。

歌人としての活動

「大弐三位」の名で活躍していた賢子は、母紫式部の影響を受けつつも、全く違う明るい雰囲気の歌が多いような気がします。
彼女の和歌は、繊細な感性と深い洞察力を特徴としており、当時の歌合わせなどで高い評価を得ています。
読んだらその状況をダイレクトに読み手に伝えるようなそんなみずみずしい感性を感じます

百人一首に選ばれた歌:
「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」
この歌は、会いに来なくなった男性への返答として詠まれたもので、忘れることはないという気持ちを表現しています。
藤原頼宗に贈った歌:
「こひしさの うきにまぎるゝ ものならば またふたゝびと 君を見ましや」
この歌は、恋しさが紛れないからこそ、また会いたいという思いを直接的に表現しています。
藤原定頼との恋愛を詠んだ歌:
「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなをざりの 袖かふれつる」
この歌は『新古今和歌集』や『後拾遺和歌集』に収録されており、浮気な相手を揶揄する内容となっています。
これらの和歌は、賢子の歌人としての才能と、恋愛に対する率直な表現を示しています。母である紫式部とは異なる、より直接的な感情表現が特徴的です。

文学史上の位置づけ

賢子の作品は、平安後期の和歌の発展に貢献し、後の中世文学への橋渡し的役割を果たしたと評価されています。

賢子さんの結婚

藤原成章との結婚は、当時の貴族社会における政治的・社会的結びつきの一例として捉えることができます。
夫婦関係が良好だったとされる点は、当時の政略結婚の中でも注目に値します。

最初の結婚

賢子は27歳頃(1025年頃)、藤原兼隆と結婚し、女児を出産しました。藤原兼隆は正二位、中納言まで上った貴公子で、関白・藤原道兼の次男であり、藤原道長の甥でした。
兼隆との年齢差は約14歳でした。しかし、この結婚は残念ながら長く続かなかったようです。

二度目の結婚

その後、賢子は藤原成章(高階成章とも)と結婚しました。
この結婚では賢子は嫡妻になったようですね。
成章は大宰大弐の官職にあり、賢子の女房名「大弐三位」はこの夫の官職と自身の位階(従三位)に由来しています。
この結婚は詳しい資料は残っていませんが、夫婦仲もよく夫の赴任地である九州についていったり、夫の官職名を名付けられていることでわかるようにながく夫婦でいたようですね。

子供

賢子の子供については、以下の情報が確認できます:
藤原兼隆との間に女児を出産(1025年頃)
この出産が賢子の人生の転機となり、後に後朱雀天皇の第一皇子・親仁親王の乳母となるきっかけとなりました。
賢子の結婚生活や子供についての詳細な情報は限られていますが、彼女が母となり、そして皇子の乳母という重要な役割を担ったことが、彼女の社会的地位を高める大きな要因となったことがわかります。
その子供がどんな人生だったのか、まったく資料に残っていないので、ここでは詳しく書けません。
また詳しい事実がわかったら、ここに追記していきます。

紫式部と賢子の関係を考える

私の勝手な私見を考えて述べてみます。
時代がかわれば、親子関係やかかわり方も変わるものでしょうが、子供が母親を求めることに時代の差はなく、それは不変だと思います。
子供は母親にそばにいてほしいと、小さいうちは特に思うのではないかと思います。
紫式部は小さかった賢子を手元におかず、自分だけで藤原中宮彰子に仕えます。
これがどれほど、賢子の心に寂しさを増幅させたか…それは想像できるのではないかと思うんです。
光る君への話はかなりフィクションも多く含まれますが、賢子の母・紫式部の気持ちだけは真実なんじゃないかと思います。

まとめ

賢子はその名を歴史の一ページに残しました。
夫婦仲もよかったようですし、それは幸せの象徴のような人生です。
でも、それが幸せかどうかは賢子にしかわからないです。

みなさんは賢子さんの人生をどう思いますか?

ご意見をいただけたらうれしいです。