歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・平安時代

無表情藤原彰子と傲慢藤原道長の物語、彼らも普通の親子だった!

平安時代は、日本の歴史において文化と政治が交錯する時代でした。
その渦中にいたのが藤原彰子とその父、藤原道長です。
彼らは親子でありながら、親子ではなく、愛憎渦巻いていたと思います。

彼らはどんな親子で、そして彰子はどんな気持ちで生きていたのか…私なりに考えてみました。

藤原彰子の道長への印象とは?

父である以上に、藤原彰子は道長をどう思っていたのか?

「傍若無人」
「唯我独尊」
「自分勝手」
「子供を駒にする」
「デリカシーがない」
「道理を守らない」

こんなところだったんじゃないかと思います。

そんな父親を持つ12歳の女の子が入内して幸せになろうとあがいて、一生懸命な姿って、けなげすぎて泣けてきます。
でもこれって全部ではないけど、思春期の女子が父親に感じてしまう感情と似ていませんか?

貴族の姫君は無感情が普通だった。

NHK大河ドラマ、光る君へを見ていて、藤原彰子が無表情であまり笑わないことが、奇妙に感じる方もおおかもしれませんが、平安時代の姫君は人前に軽々しくはでてきません。
身の周りの世話をする女房達がすべて、先回りして動いてしまうために自分の意思なんて出す暇もなく、感情なんていつの間にかない状態が常でした。
だから、それが普通で、感情を出さないことも普通でした。
むしろ感情を出すことは、下品とさえされていた時代だったのです。
これは平安時代の貴族たちが、麻呂眉にしていたことと関係があります。

眉は口ほどにものをいう?!

余談ですが眉毛のあたりは神経が張り巡らされていて、その感情がダイレクトに出る部分です。
ですから、眉毛を全部抜き、感情を相手に悟られないようにしていたのです。
だから、貴族の姫君たちの感情の揺れを相手にあからさまに悟られる行為というのは下品だったとされています。

ゆえに、光る君への藤原彰子のあの無表情な様子は、むしろ平安時代の貴族女子を表している様子なのです。

藤原彰子の道長への反抗期とは?

光る君への中でも今後、出てくるかと思いますが・・・。

その① 一条天皇の東宮位についての対立

一条天皇は自分の後の皇位つまり東宮を誰にするか・・・それはもう心に決めていました。
それは最愛の人「中宮定子」との間の子供、敦康親王でした。
それは彰子も心から一条天皇の意向に沿いたいと考えていたようです。
しかし、そのことを道長は知りながら、勝手に彰子が生んだ後一条天皇に決めてしまいます。

后宮(彰子)丞相(道長)を怨み奉った/権記

権記にはその時に彰子が道長にかなり強く反発したと書かれています。

どんな背景があったのか

背景には、道長が朝廷の重臣としての地位を利用していたことは想像できると思います。
外孫(彰子の子供で、外孫)である敦成親王を皇太子とすることが、政治的に有利であると考えたというのは、これまた想像できます。
身内の孫が天皇になってしまって、後ろで糸をひいちゃえば、もうしたい放題です。

その結果、定子の子供の敦康親王は東宮になれず、後一条天皇が東宮に選ばれました。

このような状況は、藤原行成(一条天皇の秘書的な存在・渡辺大知/光る君へでの役柄)の奏上によっても影響されていたようで、行成は道長の意向を支持し、敦成親王を皇太子にすることを進言しました。
この結果、敦康親王は後ろ盾を失い、最終的に東宮にはなれませんでした。
一条天皇も、ここぞってところで気が弱いっていうか…。藤原一門に、特に道長にはいいようにされちゃって、アハレです。

その② 次女の妍子さんの出産

妍子さんの一子目お子さんは姫君を出産されています。
妍子さんは三条天皇に入内した道長の次女でした。

その出産で道長が言い放った言葉

なんと…「女子か…(現代風の言い回し)」とぼそりといったと伝わっています。

しかもそのあとすぐに不機嫌になったとか…。

そのような感情をすぐに表すところが、いいところなのかもしれませんが、この件にかんしては、全女性を敵に回す発言です。

これを知った彰子もかなり反発し、意見したようです。

病弱な一条天皇に対して…

一条天皇は32歳でお亡くなりになっています。
なくなる前は体調不良で臥せっていることが多かった一条天皇ですが・・・そこでもまた道長はやらかしてくれます。

早く後一条天皇に譲位したかった道長

結果を早く出したいオトコ・藤原道長。
かれは占いといって、その占いで一条天皇が近いうちに崩御すると出たと、一条天皇がいるあたりで、ポロリと漏らしてしまいます。
もともと線が細い一条天皇ですから、そんなことを聞いたら、余計弱ってしまい、譲位を決意します。

それを聞いた彰子は、かなり強く道長を責めたそうです。
彰子は一条天皇の事を大事に思っていましたから、その無神経な道長のやり方に、憤りを感じていたようです。

それでも無神経な道長

かずかずのやらかしオトコ、道長ですが、それの原因が全く分かっていないか、知らないふりをしている様子に、彰子も怒り心頭な点もあったんじゃないかと想像できます。

そんな道長を見ているからこそ…

彰子は、紫式部日記などにもでてきますが、非常に潔癖症というか、正義感にあふれた公平な女性だったようですね。
それは、紫式部からの教育のたまものだったんじゃないかと思います。
自分の子供が後一条天皇、後朱雀天皇となり、その二人が先に他界してなおその後の政治にも相談役として、のこり89歳まで生きた彰子ですが、入内したころの幼い様子は書き消えて、立派な国母となって国を導きました。

その様子は、公卿からも賢后と言われたほどだったと伝わっています。

道長への反抗の根底にあったもの

内気だった少女は、どうして強く父親に進言するに至ったのか…。
これがずっと疑問でした。
私が今回じっくりと考えてみた結果として…。

彰子は一条天皇の事を尊敬して愛していたからだったんじゃないかと思うんです。
そして天皇家、ひいては国もことを考えていたからこその進言だったんじゃないか
と思っています。

まとめ

藤原彰子と藤原道長の物語は、どう思われますか?
特に、彰子が父に反抗したエピソードは、彼女の強い意志と政治的な影響力を示すものであり、現代においても多くの人々にとって興味深いテーマとなっています。
しかし、その様子は現代の私たちの父と娘の親子喧嘩って感じです。
歴史を学ぶことで、過去と現在も根底にあるものは何も変わっていないと感じることができる。思います。