幕末の天才幕臣として知られる小栗上野介忠順。
日本の近代化を先取りした先見性を持ちながら、慶応4年(1868年)、新政府軍によって「賊軍」とされ、非業の最期を遂げました。
しかし――
小栗忠順の物語は、彼の死で終わりではありません。
夫の処刑という絶望の淵に立たされながらも、その名と血を未来へとつないだ人物がいました。
それが、妻・道子です。
忠順が処刑されたとき、道子は妊娠8ヶ月の身でした。
追われる立場となり、群馬・権田村から新潟、そして会津へ。
険しい峠を、草刈り籠に揺られながら越える――
それは、生き延びるための逃避であると同時に、「小栗家を守るための戦い」でもありました。
戦火の会津で生まれた娘・国子。
明治という新時代の中で、支えとなった三野村利左衛門の恩義。
そして、大隈重信へと受け継がれていく小栗家再興の道――。
NHKドラマや大河ではほとんど描かれない、
小栗忠順の妻・道子の“その後”。
本記事では、夫を失った一人の女性が、命をつなぎ、家名を守り抜いた生涯を、史実をもとに丁寧にたどっていきます。
夫・小栗忠順の処刑と、道子に訪れた運命の転換
慶応4年(1868年)閏4月、群馬・権田村。
幕末の動乱が最終局面を迎える中で、小栗上野介忠順は新政府軍によって処刑されました。
日本の近代化を構想し、横須賀製鉄所建設など数々の先見的政策を進めてきた人物が、十分な取り調べもないまま「賊軍」と断じられ、銃殺されたのです。
この瞬間、小栗忠順の妻・道子の人生も、決定的に変わりました。
夫を失った悲しみ以上に、道子を追い詰めたのは、「賊軍の幕臣の妻」という烙印でした。
幕府が崩壊し、新政府が権力を握った時代において、小栗の名は危険そのものだったのです。
忠順の関係者であるというだけで、捕縛、処罰される可能性すらありました。
しかも道子は、妊娠8ヶ月という身重の体でした。
夫の死を知らされた直後、彼女の前にあったのは、嘆き悲しむ時間ではなく、「生き延びるための決断」でした。
実は忠順は、自らの身に何かあった場合を想定し、すでに手を打っていました。
万一のときは、妻・道子、母のくに、そして養女の鉞子(よきこ)を安全な地へ逃がすよう、信頼する地元の村役人・中島三左衛門らに密かに託していたのです。
それは、死を覚悟した者だけが用意できる「最後の配慮」でした。
こうして道子は、夫の亡骸に別れを告げる間もなく、
賊軍の妻として追われる立場となり、命を懸けた逃避行へと身を投じることになります。
この瞬間から、
小栗忠順の物語は「英雄の死」から、
妻・道子が生き抜いたもう一つの幕末悲劇へと姿を変えていくのです。
逃亡劇の舞台裏──村人たちの忠義
権田村から始まった命懸けの脱出
小栗忠順が処刑された直後、妻・道子はもはや権田村に留まることができませんでした。
彼女は母のくに、そして養女の鉞子(よきこ)とともに、命懸けの逃亡へと踏み出します。
向かった先は、群馬から越後(新潟)を経て、会津へ。
これは単なる避難ではなく、新政府の追及を避けるための隠密行動でした。
街道を避け、人目につかぬ山道を選び、夜陰に紛れて移動する――
一行は常に「見つかれば終わり」という緊張の中にありました。
この逃避行を支えたのは、武士ではありません。
小栗家の領地であった権田村の農民たちでした。
彼らは、処刑された「賊軍の将」の妻子を逃がすことが、
自らの命を危険にさらす行為であることを、誰よりも理解していました。
それでも彼らは、道子たちを見捨てなかったのです。
これでもわかる通り、小栗忠順は領民から慕われていたんだと思います。
自分の命を顧みることもなく、領主の奥さんを逃がすことがどれほど危険なことか・・・。
人柄が透けて見えますね。
草刈り籠に揺られて越えた峠
逃亡ルートの中でも、特に過酷だったのが険しい山越えでした。
急峻な山道では、山駕籠(やまかご)すら通ることができません。
そこで村人たちが選んだのが、
本来は農作業に使う「草刈り籠」でした。
妊娠8ヶ月の道子は、その草刈り籠の中に身を横たえ、
村人の背に揺られながら、峠を越えていったと伝えられています。
足を滑らせれば、谷へ転落する危険もある。
道子自身も、腹の子も、村人も、誰一人として安全ではない――
それはまさに、極限状況の逃避行でした。
それでも彼らは歩みを止めませんでした。
草刈り籠に入った道子は、声を出すことも許されず、
ただ歯を食いしばり、腹の子の命を守ることだけを考えていたといいます。
命を懸けた農民たちの選択
なぜ、彼らはそこまでして道子を助けたのでしょうか。
「賊軍の家族」を匿えば、発覚した瞬間に重罪。
場合によっては、村そのものが処罰される危険すらありました。
それでも農民たちは、道子を背負い、山を越えました。
理由はただ一つ。
小栗忠順が、生前どれほど領民を大切にしていたかを、
彼ら自身が身をもって知っていたからです。
忠順は、決して領民を使い捨てるような人物ではありませんでした。
村の暮らしを守り、声に耳を傾け、理不尽な負担を強いない――
その積み重ねが、処刑後になってもなお、
「この人の妻子は守らねばならない」という思いを生んだのです。
こうして道子は、
夫が生きた証そのものとも言える忠義に支えられ、
群馬から新潟、そして会津へと命をつないでいきました。
この逃亡劇は、
小栗忠順という人物の評価を、
功績や政策だけでなく、人間性の面から私たちにおしえてくれているんじゃないかと思います。
戦火の会津で生まれた命──娘・国子の誕生
群馬から新潟、そして会津へ――。
草刈り籠に揺られ、命をつなぐ逃避行の果てに、道子たち一行はようやく会津若松へとたどり着きました。
しかし、そこは安息の地ではありませんでした。
会津はすでに、新政府軍と旧幕府勢力との激戦の渦中にあったのです。
銃声が響き、砲煙が町を覆い、
明日があるかどうかすら分からない――
そんな極限の状況の中で、小栗忠順の妻・道子は、出産の時を迎えます。
砲声の中で迎えた出産
道子が身を寄せたのは、会津藩若年寄・横山主税(よこやまちから)の屋敷でした。
横山は、賊軍とされた小栗家の妻子を匿うことが、どれほど危険な行為であるかを承知の上で、道子を迎え入れています。
慶応4年(1868年)6月10日。
会津戦争が激しさを増す最中、
道子はついに、女児を出産しました。
砲声が遠くで鳴り響く中、
生まれたばかりの小さな命が、確かに泣き声をあげた――
それは、絶望の中に差し込んだ、唯一の希望の音でした。
夫・忠順はすでにこの世にいません。
父の顔を一度も見ることなく生まれたその子は、
それでも確かに、小栗忠順の血を引く存在でした。
「国子」という名に込められた遺言
道子は、生まれた娘に「国子(くにこ)」と名付けます。
忠順は処刑される前、
「もし女子が生まれたなら、母(くに)と同じ名を付けよ」
という言葉を遺していたと伝えられています。
忠順は、自らの死を予感しながらも、
妻と生まれてくる子の未来を、最後まで案じていたのです。
国子――
その名には、
祖母の名、父の願い、そして小栗家を絶やさぬという祈りが込められていました。
母となった道子の覚悟
この瞬間から、道子は「逃げる女」ではなく、
「守る母」となります。
自分一人なら、命を捨てる覚悟もできたかもしれない。
しかし、今は違う。
この腕の中にある命を、生かさねばならない。
賊軍の血を引く子として、
明治という新しい時代を生き抜かせなければならない――
それは、想像を絶する重荷でした。
それでも道子は、泣きませんでした。
ただ静かに、深く、覚悟を決めたのです。
「この子だけは、必ず守り抜く」
この誓いこそが、
のちに小栗家を再興させ、
夫の名誉を未来へとつなぐ、すべての始まりでした。
会津の戦火の中で生まれた一人の少女。
それは偶然ではなく、
小栗忠順という男の人生が、まだ続いていくのです。
明治という新時代と、三野村利左衛門の「義理」
幕府が倒れ、会津が燃え、時代は「明治」と名を変えた。
だがその新時代は、すべての人に平等ではなかった。
小栗忠順の妻・道子にとって明治とは、
希望の時代ではなく、「生き延びること自体が試される時代」だった。
東京への帰還と深川の屋敷
会津戦争が終結すると、道子と娘・国子は、ようやく長い逃避行を終える。
群馬から新潟、そして会津へ――
妊娠八か月で峠を越えた命懸けの日々の先にあったのは、
焼け野原の日本だった。
このとき、道子はまだ「賊軍の将・小栗忠順の妻」である。
新政府の目は冷たく、堂々と生きることは許されない。
そんな彼女たちに、東京・深川への帰還という道を開いたのが、
三野村利左衛門だった。
三野村は、明治政府とも深く結びついた実力者であり、
三井組を支える中心人物。
その彼が、道子母子のために深川に屋敷を用意し、生活を支えたのである。
これは単なる援助ではない。
明治という勝者の時代にあって、
敗者の家族を「人として遇する」という、明確な意思表示だった。
恩を忘れなかった男・三野村利左衛門
三野村利左衛門という人物を語るとき、
外せないのが小栗忠順との関係である。
三野村は、もともと身分の高い人物ではなかった。
だが小栗忠順は、出自ではなく能力で人を見た。
財政、商業、国際感覚――
三野村の才覚を見抜き、引き立てたのが小栗だった。
その恩は、
小栗が処刑され、
徳川が敗れ、
時代がひっくり返った後も、消えなかった。
三野村は、やがて
「三井の救世主」と呼ばれるほどの実業家となる。
だが成功の絶頂にあっても、
彼は小栗忠順の名を忘れなかった。
だからこそ、
小栗忠順の妻・道子を守ることは、
彼にとって当然の行為だった。
小栗忠順の人間的魅力は、
処刑という最悪の結末を迎えたあとでさえ、
人を動かし続けていた。
それを、三野村利左衛門の行動が何より雄弁に物語っている。
実家に頼らなかった道子の矜持
ここで、道子という女性の芯の強さが浮かび上がる。
道子の実家は、
播磨国林田藩二万五千石を領した譜代大名・建部家。
本来であれば、身を寄せることもできたはずだった。
しかし道子は、実家を頼らなかった。
理由は明確である。
自分は「賊軍とされた小栗忠順の妻」。
その存在自体が、建部家に迷惑をかけかねない。
そして何より、
彼女は最後まで「小栗忠順の妻」として生きることを選んだ。
実家の娘としてではなく、
庇護される未亡人としてでもなく、
処刑された幕臣の妻として――
その名を背負ったまま、明治を生きる。
この選択は、静かだが重い。
三野村利左衛門の「義理」と、
道子の「矜持」。
この二つが交差したからこそ、
小栗家は断絶せず、
娘・国子へ、そして現代へとつづいたんじゃないかとおもうんですよね。
娘・国子の成長と、大隈重信による小栗家再興
道子の死と、残された娘
激動の幕末を生き延び、明治という新しい時代を迎えた道子でしたが、その人生は決して長くはありませんでした。
正確な没年には諸説ありますが、40歳前後という若さでこの世を去ったとされています。
夫・小栗忠順を「逆賊」として失い、
身重のまま命懸けの逃亡を経験し、
娘・国子を守るためだけに生き抜いた半生。
この時国子は推定で10歳前後だったはずです。
まだまだ小さい子供を残していかねばならないとはどんな気持ちだったか・・・。
その晩年は、静かでありながら、どこか張り詰めた緊張を抱え続けていたものだったでしょう。
彼女にとっての最大の願いはただ一つ――
娘が、父の名を恥じることなく生きられる未来でした。
道子の死は、悲劇であると同時に、ひとつの「託し」でもありました。
その想いは、確かに次の人物へと引き継がれていきます。
大隈重信夫妻の庇護
その人物こそが、大隈重信でした。
明治新政府の中枢にあった大隈は、
小栗忠順を「旧幕臣」という色眼鏡では見ていませんでした。
むしろ彼を、
日本の近代化を先取りしていた人物
明治国家が最も必要としていたタイプの官僚
時代に殺された天才
として、高く評価していたのです。
その敬意は、言葉だけにとどまりませんでした。
道子亡きあと、娘・国子を養女同然に庇護し、生活面だけでなく、教育や将来にまで心を配りました。
そこには政治的な打算よりも、
「小栗忠順という人物を正当に評価したい」
「その血を、歴史の闇に埋もれさせたくない」
という、大隈自身の信念があったと見るべきでしょう。
国子にとって大隈夫妻は、単なる後見人ではありません。
父の価値を理解してくれた、唯一の“味方”だったのです。
国子の結婚と小栗家の存続
やがて国子は成長し、大隈の尽力によって一つの縁が結ばれます。
相手は、元佐賀藩士の矢野貞雄。
言論人・矢野龍渓(矢野文雄)の実弟でもある人物でした。
この婚姻によって、ついに――
小栗家は名実ともに再興されます。
それは単なる「家名の回復」ではありませんでした。
新政府によって断ち切られたかに見えた小栗忠順の血脈が、
明治という時代の中で、静かに、しかし確かに受け継がれた瞬間だったのです。
現在まで続く小栗家の存在は、
処刑された一人の幕臣
その妻として生き抜いた道子
父の名を背負って成長した国子
三代にわたる「耐え抜く力」の結晶と言ってよいでしょう。
道子の墓と、遺されたもの
雑司ヶ谷霊園に眠る、小栗家累代の墓
現在、小栗忠順の妻・道子の墓は、
東京都豊島区にある雑司ヶ谷霊園の一角にあります。
そこに建つのは、派手さとは無縁の「小栗家累代之墓」。
夫・忠順、娘・国子、そしてその子孫へと連なる名が、静かに刻まれています。
歴史の表舞台に立つことはなかった道子。
しかし、この墓ははっきりと語っています。
――小栗家は、滅びなかった。
――そして、その中心にいたのが道子だった、と。
一方、小栗忠順の墓は、群馬県高崎市倉渕町の東善寺にあります。
処刑地近くに建てられた墓は、今も「悲劇の幕臣」を象徴する存在です。
夫婦でありながら、
眠る場所は離れている。
この対比は、あまりにも象徴的です。
忠順は「時代に斬られた男」としてその地に留まり、
道子は「時代を生き延び、未来へつないだ女」として東京に眠る――
まるで、役割そのものが分かれていたかのようです。
血と誇りをつないだ、ひとりの女性の人生
小栗忠順が遺したものとして、よく語られるのが
「ネジ一本に至るまで、欧米式で揃えた近代化構想」です。
確かにそれは、日本の未来を先取りした偉業でした。
しかし、その構想を“人間の物語”として未来へ運んだのは誰だったのか。
それが、道子でした。
夫を処刑で失い、
賊軍の妻として追われ、
身重のまま山を越え、
娘を産み、育て、
そして家名を未来へ手渡した。
これは英雄譚ではありません。
けれど、それが夫の汚名を雪ぎ、小栗家の再興を成し遂げたのです。
道子が守ったのは、
家名だけではなく、
「小栗忠順という人物が、間違っていなかったという証明」
そのもので、道子が死ぬまで一番大事にしたかったことなんじゃないかと思うのです。
まとめ|ドラマでは描かれない、もう一人の主役
もし、2027年の大河ドラマで
小栗忠順がどれほど優れた人物として描かれたとしても、その物語は、道子抜きでは完成しません。
処刑される夫。
残された妻。
生まれたばかりの娘。
この三点が揃ったとき、
はじめて見えてくる「小栗家の本当の物語」があります。
近代化の象徴としての「ネジ一本」
命をつないだ象徴としての「血のバトン」
その両方を成立させた、
もう一つの主役こそが、道子でした。
雑司ヶ谷霊園の静かな墓前に立つとき、
私たちは気づかされます。
歴史を動かしたのは、
必ずしも刀を持つ者だけではなかったのだと。
――声なき覚悟で、静かに未来をつないだ女性が、確かにここにいたのだと。