江戸時代を代表する版元であり、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった人気浮世絵師を世に送り出した蔦屋重三郎。
彼の死因は「脚気(かっけ)」であったと伝えられています。
現代ではビタミンB1の欠乏症として知られる脚気ですが、なぜ当時の人々を苦しめ、命を落とす原因となったのでしょうか?
この記事では、蔦屋重三郎の生涯と脚なぜ裕福な人々も脚気に苦しんだのか、その背景にある栄養学的な問題点にも迫ります。
江戸文化を支えた蔦屋重三郎の最期と、当時の人々の健康に大きな影響を与えた食生活の実態を、最新の歴史研究と医学的知見を交えてお伝えします。
蔦屋重三郎の生涯と業績
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750年 – 1797年)は、江戸時代中期を代表する版元であり、浮世絵の出版において大きな功績を残しました。
特に、喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵を世に送り出したことで知られています。
寛政の改革による出版統制の影響を受け、厳しい状況に立たされますが、その後も出版活動を続けました。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期の1750年に江戸の新吉原(現在の台東区千束)で生まれました。
20代半ばで江戸の日本橋に本屋「耕書堂」を開業し、出版業を始めました。
出版業での活躍
重三郎は「みんなが読書を楽しめる本を出版したい」という想いを持って事業を展開しました。
というのも当時の本はむずかしい専門書ばかりで、気楽に読める本はなかったのです。
彼は「吉原細見」や「黄表紙本」の発行に携わり、多くの文化人と交流を深めていきました。
浮世絵師のプロデュース
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった偉才を見出し、浮世絵出版で腕を振るった現代でいうところの名プロデューサーだったんですね。
特に喜多川歌麿との出会いは、重三郎の版元としての地位を確立する重要な転機となりました。
寛政の改革と弾圧
田沼意次の時代には町人文化が花開き、経済も発展していました。
そんな中で、蔦屋重三郎の事業は発展したんですが、田沼意次の失脚すると状況は一転します。
1790年、松平定信による寛政の改革が実施され、出版物に対する規制が強化されました。1791年には、重三郎と親交の深かった山東京伝の著書が風俗をみだしたとして罰せられ、重三郎も出版者として財産半減の処罰を受けました。
晩年と最期
財産の半分を失ったにもかかわらず、重三郎は持ち前の企画力と仕掛け力で浮世絵師をプロデュースし、再び財を蓄えました。
しかし、1797年に脚気(かっけ)という病に倒れ、47歳でこの世を去りました。
最後の日には自分が死ぬのはお昼過ぎだと予言したとも言われています。
蔦屋重三郎は、江戸の芸術や文化を支え続けた「江戸のメディア王」として、最後の瞬間までその姿勢を貫いたとされています
脚気とは何か?
脚気ってなにかわかりますか?
健康診断なんかで、膝の下をゴムのトンカチでたたいて足がポンと跳ね上がった検査をされた記憶はないですか?
あれは脚気の検査です。
脚気はどうしてなるの?
脚気は、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって引き起こされる栄養障害です。
当時の人々にはその原因がわからず、「江戸患い」と恐れられていました。脚気の主な症状には以下のようなものがあります。
足のむくみや痛み:特に下肢に現れ、歩行困難になることも。
全身の倦怠感:疲れやすく、日常生活に支障をきたす。
呼吸困難:進行すると心臓機能にも影響を及ぼし、最悪の場合は命を落とすことも。
このような恐ろしい病が、蔦屋重三郎を襲ったのです。
現代では関係ない?
現代では関係ないと思いますか?
実は現代社会でも脚気を患っている方は多くいらっしゃいます。
飽食の時代と言われていますが、インスタント食品や質の悪い油などを食べると、それだけでビタミンやミネラルが破壊されて栄養不足状態になるんですね。
なので、脚気が過去の病気ではなく、現代でも十分気を付けないといけない病気なんですね。
脚気になった理由って?
江戸で多かったとされる脚気ですが、当時はその原因がわかりませんでした。
現代ではわかっている脚気の原因が当時わかっていれば、蔦屋重三郎の死期も変わっていたかもしれません。
では当時の脚気の原因となった理由についてみていきましょう。
白米中心の食事文化
江戸時代、日本では白米が主食とされていました。
特に都市部では、白米を贅沢に食べることが一般的でした。
もちろんこれは富裕層だけで、白米を食べられるのはある種のステータスのようなものでした。
しかし、この白米にはビタミンB1がほとんど含まれていません。
精白米は栄養価が低く、ビタミンB1不足が蔓延する原因となりました。
江戸時代の人たちは、おかずをそれほど食べず、お米をたくさん食べていたようです。
一日一人五合食べていたなどという文献もあり、現代とは食事風景もかなりちがいます。
階級による食事の違い
興味深いことに、裕福な階級ほど脚気にかかりやすい傾向がありました。
上流階級は白米中心の食事をしていた一方で、農村部では雑穀や野菜を多く摂取していました。
このため、農村部では比較的脚気が少なかった…というよりほとんどなかったと考えられています。
もちろん貧しい家ではお医者にかかることもできなかったので、違う病気などで死んでしまうこともあったはずです。
蔦屋重三郎の死から学ぶこと
蔦屋重三郎の死は、当時の食生活が健康にいかに大事かということを物語っていると思います。。
彼は成功した商人でありながら、栄養知識が不足していたために脚気に苦しむことになりました。
当時の常識や栄養の知識が今と同じようにあれば、脚気にはならなかったでしょう。
また白米を食べることが豊かさの象徴のように感じず、玄米を食べていたら、たんぱく質やミネラルやビタミンをもっとたくさんたべていたら…すべてはタラレバなんですけど、残念な気持ちになります。
この出来事から私たちが学べることは何でしょうか?
栄養知識の重要性
現代においても、バランスの取れた食事は健康維持に欠かせません。
先にも書きましたが、現代でも脚気になる方はいます。
多くは食べていても栄養価を気にしないで、食べたいものを食べているからです。
蔦屋重三郎の悲劇は、栄養知識が不足しているとどんなに裕福でも健康を損なう可能性があることを教えてくれています。
現代への教訓
江戸時代の脚気問題から得られる教訓ってなんだと思いますか?
毎日30品目をとるなどの栄養バランスを考えて、健康情報に気を配って健康管理に役に立てていかなくてはならないということです。
健康への様々な研究はいろいろとわかってきています。
例えば。ほんの数年前まで卵は一日一個までが健康にいいとされていましたが、最近では卵の個数にそれほど神経質にならなくてもいいとされています。
卵は総合栄養食なので、積極的に食べたい食材なんだそうです。
もちろんたまごばっかり食べてはいけませんが、いろいろなものを少しずつでも食べる必要があるということだと私は考えています。
まとめ
蔦屋重三郎の死因となった脚気は、江戸時代の食生活が引き起こした悲劇的な出来事でした。
この歴史的背景から私たちは、多様な栄養素を含むバランスの取れた食事がいかに重要であるかを実感できたんじゃないでしょうか。
彼の人生と死は、私たちに健康への意識を高めるための貴重な教訓となっているのです。
江戸時代から現代へと続くこのメッセージを胸に刻み、より良い食生活を目指しましょう。