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昌平黌(しょうへいこう)とは?『逆賊の幕臣』の鍵となる幕府の最高学府

昌平黌(しょうへいこう)とは、江戸幕府が設けた最高学府であり、幕臣の子弟たちが学んだエリート教育機関です。

昌平黌(しょうへいこう)ってなに?って思いましたよね。
あまり聞いたことないと思います。
江戸時代にその存在はありましたが、幕府の中心人物たちの教育機関だったんです。
そこでも一部の人間しか知らなかった教育機関ですから、知らなくて普通です。

実は2027年放送予定のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』をより深く理解するうえでも、この昌平黌の存在は欠かせません。

主人公・小栗忠順が生きた時代、幕府を支えた官僚たちはどのような思想と教育のもとで育ったのか。
その背景にあったのが、幕府公認の学問所・昌平坂学問所でした。
本記事では、昌平黌の役割と思想、そしてドラマとの関係をわかりやすく解説します。

昌平黌(しょうへいこう)とは何か

昌平黌(しょうへいこう)とは、江戸幕府が直轄で運営した武士のための最高学府です。
正式には昌平坂学問所といい、幕府の公式教育機関として機能していました。

現代でいえば、国家公務員を養成するためのトップスクールのような存在です。
単なる寺子屋や私塾とは違い、「幕府の思想と統治を支える人材」を育てる場所でした。

幕府が設けた最高学府

昌平黌の起源は、江戸の湯島聖堂に置かれた儒学の学問所にさかのぼります。
18世紀後半には幕府直轄となり、全国の幕臣子弟が学ぶ公式機関となりました。

ここで学ぶことは、単なる教養ではありません。

武士としての倫理

主君への忠義

国家を支えるための思想

つまり昌平黌は、幕府の価値観そのものを教える場だったのです。

だからこそ「最高学府」と呼ばれました。

何を教えていたのか(朱子学と武士教育)

昌平黌の中心科目は、儒学、とくに朱子学でした。

朱子学とは、

身分秩序を重んじる

礼を守る

道徳を基盤に政治を行う

という考え方です。

武士にとって学問とは、出世のためだけではありません。
人格を磨き、統治者としての自覚を持つための訓練でした。

そのため昌平黌では、

  • 四書五経の講義
  • 漢文読解
  • 歴史研究
  • 政治思想

などが教えられていました。

知識だけでなく、「型」を重んじる学問が徹底されていたのです。

なぜ幕臣子弟が学んだのか

では、なぜ幕臣の子どもたちは昌平黌で学んだのでしょうか。

理由は明確です。

幕府の中枢を担う人材を育てるためです。

旗本や御家人の家に生まれた子弟は、将来、幕府の行政や外交に関わる可能性がありました。
そのとき必要になるのは、武力ではなく「思考力」と「統治理念」です。

昌平黌は、そうした幕府官僚の予備校のような役割を果たしていました。

だからこそ――

幕末に活躍した人物たちの多くが、この思想環境の中で育っているのです。

昌平黌教授も務めた儒学者安積艮斎のもとで学んだ小栗忠順は、その思想環境の中で形成された人物の一人といえるでしょう。

なぜ『逆賊の幕臣』を理解する鍵になるのか

昌平黌は、ただの学校ではありませんでした。
そこは、幕府という国家を支える思考の土台をつくる場所でした。

2027年放送予定のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』を深く理解するためには、この「思想の背景」を知ることが欠かせません。

主人公がなぜあの決断をしたのか。
なぜ最後まで幕府を支えようとしたのか。

その根底には、昌平黌的な価値観が流れている可能性があるからです。

小栗忠順が生きた思想環境

『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順は、幕府の中枢で財政や外交を担った人物です。

彼が生きた幕末という時代は、
開国・倒幕・内戦と、秩序が崩れゆく時代でした。

しかし忠順は、感情的に動くのではなく、

現実を直視し

冷静に状況を分析し

幕府の存続を模索する

という姿勢を貫いたとされています。

こうした姿勢は偶然生まれたものではありません。

幕臣として育ち、儒学を基盤とする教育環境の中で形成された思考法――
その中心にあったのが昌平黌的な学問世界でした。

つまり、昌平黌とは「忠順という人物を理解するための思想的背景」なのです。

(※忠順の詳しい人物像は別記事で詳しく解説しています。)

幕府エリートの思考法とは何か

昌平黌で重んじられたのは、単なる知識ではありません。

  • 重視されたのは、
  • 合理性(理にかなっているか)
  • 秩序(社会の安定を守る)
  • 責任(与えられた立場を全うする)

という価値観でした。

朱子学は、感情よりも理を重んじます。
統治者は私情ではなく、道理に従うべきだと教えます。

その結果、幕府エリートたちは

「体制を壊す」よりも
「体制を立て直す」方向へ思考しやすい土壌にありました。

幕末の混乱期にあっても、最後まで幕府の再建を模索した人物が少なくなかったのは、この教育の影響と無関係ではないでしょう。

昌平黌出身者が幕末で果たした役割

昌平黌で学んだ人材は、幕末の政治・外交・軍事の現場に送り出されました。

彼らは必ずしも表舞台の英雄ではありません。
しかし、政策立案や財政管理、交渉の場で重要な役割を担いました。

幕末は、思想が激しくぶつかり合った時代です。

尊王攘夷を掲げる急進派がいる一方で、
冷静に国の形を模索し続けた官僚層も存在しました。

その多くが、昌平黌という共通の思想基盤を持っていたのです。

だからこそ――

『逆賊の幕臣』という物語は、単なる一人の人物伝ではありません。

それは、昌平黌という思想空間が生んだ幕府エリートの物語でもあるのです。

昌平黌教授とは何か

昌平黌には「教授(きょうじゅ)」と呼ばれる役職がありました。
これは単なる講師ではなく、幕府公認の学問指導者という重い立場を意味します。

昌平黌教授とは、幕府の思想教育を担う存在――
いわば「幕府公式の教育責任者」でした。

教授の役割と立場

昌平黌の教授は、儒学、とくに朱子学を中心とした講義を担当しました。

その役割は大きく三つあります。

  • 武士としての倫理観を教える
  • 統治者としての思想を養う
  • 学問の正統性を守る

つまり教授は、単に知識を伝える人ではありません。
幕府がどのような価値観で国を治めるのか、その基準を示す存在だったのです。

幕府直轄の教育機関である以上、そこで教える内容は政治と切り離せません。

昌平黌教授は、「思想を通じて幕府を支える役職」だったと言えるでしょう。

安積艮斎と昌平黌

その昌平黌教授を務めた人物の一人が、
安積艮斎です。

艮斎は江戸で私塾を開き、多くの門弟を育てた儒学者として知られています。
のちに昌平黌教授となり、幕臣子弟の教育に深く関わりました。

彼の学問は、単なる理論ではなく「型」を重んじる実践的な儒学でした。
秩序を守り、与えられた立場を全うすることを説くその姿勢は、幕府官僚の精神的基盤とも重なります。

昌平黌という制度と、艮斎という教育者。
この二つが重なったとき、幕末を生きる武士たちの思考環境が見えてきます。

そしてその延長線上に、
『逆賊の幕臣』の主人公である小栗忠順の時代があるのです。

(※艮斎の人物像や思想については、別記事で詳しく解説しています。)

昌平黌と幕末動乱の関係

幕末は、日本の歴史のなかでも最も思想が揺れ動いた時代です。

開国か攘夷か。
幕府を守るのか、倒すのか。

秩序を重んじる朱子学を基盤とした昌平黌の思想は、この激動の中で試されることになります。

なぜ思想が揺らいだのか

昌平黌で教えられた朱子学は、「秩序」と「忠義」を重んじる学問でした。

しかし幕末には、西洋の軍事力や科学技術という現実が突きつけられます。
理想だけでは国家を守れない状況が訪れたのです。

さらに、水戸学や国学、尊王攘夷思想といった新しい潮流も広がりました。
「幕府への忠義」よりも「天皇への忠義」を重んじる考え方が台頭し、価値観そのものが揺らいでいきます。

昌平黌の学問は、体制を守るための思想でした。
しかし体制そのものが揺らいだとき、その学問もまた問い直されることになります。

それでも、多くの幕臣は最後まで秩序を守ろうとしました。
そこに昌平黌教育の影響を見ることもできるでしょう。

 

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幕府瓦解と学問所のその後

1868年、江戸幕府は瓦解します。

幕府の最高学府であった昌平坂学問所も、その役割を終えることになりました。

幕府とともに存在していた教育機関は、新政府のもとで再編されていきます。
やがて近代的な学校制度へと姿を変え、日本の教育は新しい時代へ進みました。

つまり昌平黌は、旧体制の象徴でもあったのです。

ここでドラマ視聴者は、こう疑問に思うかもしれません。

「その教育を受けた人々は、明治という新しい時代にどう向き合ったのか?」

その問いこそが、『逆賊の幕臣』という物語の核心につながっていきます。

昌平黌を知ると『逆賊の幕臣』はどう見えるか

昌平黌を知ると、このドラマは単なる“悲劇の人物伝”ではなくなります。

それは、ひとつの思想と、その終焉を描く物語にも見えてくるのです。

忠順の冷静さの背景

主人公・小栗忠順は、幕末という混乱の中でも冷静な判断を重ねた人物とされています。

感情的な攘夷論に走るのではなく、
現実を見据え、財政再建や軍制改革を模索しました。

その姿勢の背景には、

理を重んじる思考

立場を全うする責任感

体制を支えるという自覚

といった昌平黌的な価値観があったと考えることもできます。

もちろん、忠順のすべてを学問だけで説明することはできません。
しかし彼が育った思想環境を知ることで、その冷静さの意味がより立体的に見えてくるのです。

教育が生んだ「逆賊」という評価の皮肉

興味深いのは、秩序を守るための教育を受けた人物が、のちに「逆賊」と呼ばれたことです。

幕府を最後まで支えようとした行動が、
新政府の側から見れば「逆らう者」と映った。

ここに歴史の皮肉があります。

昌平黌は、忠義と秩序を教えました。
その教えに忠実であろうとした結果、時代の勝者からは逆賊と評価された――。

『逆賊の幕臣』というタイトルには、
こうした思想と時代のすれ違いが込められているのかもしれません。

昌平黌を知ることで、
物語は単なる善悪の対立ではなく、「価値観の衝突」として見えてきます。

よくある質問(FAQ)

Q1. 昌平黌は今もある?

いいえ、現在は存在していません。

昌平黌(正式名称:昌平坂学問所)は江戸幕府の直轄教育機関でした。
1868年の明治維新により幕府が廃止されると、その役割を終えます。

その後、日本は近代的な学校制度へ移行し、昌平黌は歴史上の存在となりました。

Q2. 昌平黌と湯島聖堂の関係は?

昌平黌は、現在の湯島聖堂の敷地内に置かれていました。

湯島聖堂は孔子を祀る儒学の聖堂で、江戸幕府が儒学を重んじた象徴的な場所です。
その敷地に設けられた学問所が昌平坂学問所(昌平黌)でした。

なお、学問の神様として有名な湯島天満宮(湯島天神)とは別の施設です。
場所は近いですが、由来や役割は異なります。

Q3. 昌平黌教授とは?

昌平黌教授とは、幕府公認の儒学指導者のことです。

単なる講師ではなく、幕臣子弟に朱子学を教え、
幕府の統治理念や倫理観を伝える重要な役職でした。

教授は「思想を通じて幕府を支える存在」とも言えます。
その一人として知られるのが、儒学者の安積艮斎です。

まとめ|昌平黌が映し出す幕末という時代

昌平黌(しょうへいこう)は、江戸幕府が設けた最高学府でした。
そこは単なる学校ではなく、幕府の統治理念と価値観を次世代へ伝える「思想の中枢」でもあったのです。

朱子学を基盤とした教育は、秩序・合理性・責任を重んじる幕府エリートを育てました。
その思想環境の中で育った人物の一人が、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公、小栗忠順です。

幕末という激動の時代にあっても、体制を立て直そうとした冷静な判断。
その背景には、昌平坂学問所で培われた価値観があったのかもしれません。

しかし歴史は皮肉です。
秩序を守ろうとした行動が、新しい時代からは「逆らう者」と映ることもある。

昌平黌を知ることで、『逆賊の幕臣』は単なる英雄譚や悲劇ではなく、
時代の価値観がぶつかり合う物語として立体的に見えてきます。

そして、昌平黌教授として思想教育を担った安積艮斎の存在もまた、この物語の背景に静かに息づいています。

昌平黌とは何か――。
それは、幕府という体制の「最後の理性」を育てた場所だったのかもしれません。

ドラマ放送前にその背景を知っておくことで、物語はきっと、より深く心に届くはずです。