歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・戦国時代

なぜ滋賀では石田三成は名君と語られるのか? 徳川が作った“悪人像”の裏側

「裏切り者」「冷徹な官僚」――。
教科書や一般的な歴史観の中で、石田三成 はしばしばそう語られてきました。1600年の 関ヶ原の戦い で敗れた側に立った人物として、その評価は決して高いものではありません。

しかし、その三成の地元である 滋賀県 では、いまもなお彼を「名君」と評価する声が存在します。
居城であった 佐和山城 跡は“悲運の智将”を偲ぶ場所として語られ、三成は単なる敗者ではなく、誇りある近江の武将として記憶され続けています。

なぜ、同じ人物がここまで評価を分けるのでしょうか。
それは三成の人格の問題なのでしょうか。それとも、歴史が「勝者によって書かれた」結果なのでしょうか。

本記事では、佐和山城主としての実績、近江での統治、そして 徳川家康 の天下取り以後に形成された“悪人像”を丁寧に検証します。
滋賀で語られる三成像を手がかりに、教科書だけでは見えてこない「もう一人の石田三成」に迫ります。

三成は本当に、近江で愛された城主だったのか。
それとも後世の“美化”に過ぎないのか。
まずは、私たちが刷り込まれてきた三成像から整理してみましょう。

石田三成は本当に「嫌われ者」だったのか?

「石田三成=嫌われ者」というイメージは、現在でも非常に強く残っています。
無愛想で融通が利かず、人望がなかったために敗れた武将――。
そうした人物像は、一般向けの歴史解説や教科書、さらには大衆文化の中でも繰り返し描かれてきました。

確かに、1600年の 関ヶ原の戦い において、西軍の中心人物として敗北したことは事実です。
そして敗者となった以上、その評価が厳しくなるのは歴史上珍しいことではありません。歴史は多くの場合、勝者側の記録や政治的意図によって整理・継承されていくからです。

実際、江戸時代に天下を握ったのは 徳川家康 でした。
徳川政権のもとで語られる関ヶ原史観では、家康は秩序を取り戻した英雄として描かれ、その対立軸にいた三成は「頑固な官僚」「融通の利かない人物」として語られる傾向が強まっていきます。
この構図が長く続いたことで、「三成=冷徹で人望のない武将」というイメージが半ば常識のように定着していったのです。

しかし、史料や同時代の人物関係を丁寧に見ていくと、この単純な評価には疑問も残ります。
三成は豊臣政権において財政・検地・行政実務を担った中枢官僚であり、単なる一武将ではなく政権運営を支えた実務家でした。無能であったならば、豊臣政権の中核を任され続けること自体が不自然です。

また、三成は完全に孤立していたわけでもありません。
大谷吉継をはじめとする理解者や協力者が存在し、関ヶ原直前まで西軍の結束が維持されていた事実は、「極端に人望がなかった」という通説と必ずしも一致しないと思うんですよね。
むしろ三成は、感情的な人気よりも義理や理念を重視する、実務型の指導者だったと見ることもできます。

そもそも、敗者に対する評価は時代とともに大きく変わるものです。
関ヶ原の結果だけをもって人物の価値を断定するなら、政治・行政・統治といった側面は見落とされてしまいます。
そしてその“見落とされた部分”こそが、後世の再評価につながる要因となります。

ではなぜ、全国的には「嫌われ者」と語られやすい三成が、地元ではまったく異なる評価を受けているのでしょうか。
次に、三成が城主として治めた近江の地に目を向けると、教科書的な人物像とは異なるもう一つの姿が見えてきます。

豊臣政権内で孤立していたのは事実なのか

一般的に、石田三成は「人望がない」「武将から嫌われていた」と語られることが多い人物です。
関ヶ原の戦いにおいて多くの武将が西軍を離反した事実もあり、「嫌われ者だったから負けた」という単純な物語が広まりました。

しかし、史料を丁寧に読むと、この評価はかなり一面的なものです。

三成は行政官として豊臣政権の財政・検地・兵站を担う実務の中心人物でした。
つまり、現場の武断派大名から見れば「厳しい官僚」に映りやすい立場だったのです。

これは性格の問題というより、役割上の対立構造だったと考える方が自然でしょう。
現に、徳川家康や大谷吉継などの武将とのかなり親しい親交があったという説も出てきています。

武断派との対立は「性格」ではなく「職務」だった

三成と対立したとされる代表格が、福島正則や加藤清正といった武断派大名です。
しかし彼らとの関係は、単なる感情的な不仲ではなく、政権運営の方針の違いでした。

三成は規律・法・制度を重視する官僚型。
一方、武断派は武功と現場判断を重視する武将型。
武将型は理論では三成に勝てなかったんだと思います。
だからこそ、嫌っていた・・・のだと考えています。

この構図は現代で言えば、
「現場重視の営業」と「ルール重視の管理部門」の対立に近いものです。

実際、三成が私怨で人を処罰したという決定的な史料は乏しく、
むしろ職務に忠実だったがゆえに反発を受けた可能性が高いと指摘されています。

それでも味方は存在したという史実

「全員に嫌われていた」というイメージも史実とは一致しません。

たとえば、三成には
・大谷吉継
・島左近
など、最後まで命を懸けて支えた家臣や同盟者が存在しました。

特に大谷吉継は、三成の人柄を理解したうえで西軍に加わったとされ、
単なる打算ではなく信頼関係があったとみてとれますよね。

本当に人格的に問題がある人物であれば、
ここまで忠義を尽くす武将が複数存在するのは不自然です。
むしろだれも総大将的ポジションにはおかずにいたんではないかと思うんですよ。(総大将は毛利)

徳川政権によって強化された「悪人像」

三成の評価が決定的に歪んだ最大の要因は、
関ヶ原後に成立した徳川政権の歴史観です。

勝者である徳川家康側から見れば、
西軍の中心人物である三成は「反逆者」であり、
政治的に悪役として描かれる必要がありました。

江戸時代の軍記物や講談では、三成は
「冷酷」「陰険」「融通が利かない」人物として描写され、
このイメージが長く一般認識として定着していきます。

いわば三成の「嫌われ者像」は、
後世に作られたプロパガンダ的側面を強く持っているのです。

負け戦の方はよく書かれないのはセオリーですからね。

現代評価では「有能だが誤解された官僚型人物」

近年の歴史研究では、石田三成は
「嫌われ者」ではなく
「能力は高いが不器用な実務家」
という評価に変わりつつあります。

特に近江出身で領民統治にも実績があったことから、
地元・滋賀県では名君として語り継がれる側面もあります。

つまり、
中央(武将社会)では嫌われた人物像
地方(領民視点)では評価された統治者像
という“評価の二重構造”が存在しているのです。

近江(滋賀)ではなぜ三成は評価が違うのか

近江(滋賀)では今も三成を敬っていると聞きます。
なにがそんなに評価されたのか、そこを考えてみたいと思います。

地元・近江での石田三成の立場は「支配者」ではなく「地元の名主層出身の領主」だった

石田三成は近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)出身の武将であり、
いわば「外から来た領主」ではなく、地元に根差した人物でした。

豊臣政権下で出世した後も、三成は近江の支配を任され、
中央の権力者でありながら同時に“地元の領主”という二重の立場を持っていました。

この出自は評価に大きく影響しています。
他国の武将が統治する場合と異なり、
近江の人々にとって三成は「よそ者の大名」ではなく、
同じ土地から出た実務家の統治者だったのです。

そのため、中央史観で語られる「嫌われ者」という人物像と、
地域に残る記憶との間に温度差が生まれやすくなりました。

佐和山城主としての統治が高く評価されている理由

三成は約19万石の大名として佐和山城を拠点に近江を治めました。
佐和山城は現在の彦根市に位置し、交通と経済の要衝を押さえる重要拠点でした。

三成の統治の特徴は、
武力よりも行政・財政・民政を重視した点にあります。

具体的には
・年貢徴収の安定化
・検地による土地管理の徹底
・城下町整備による経済基盤の強化
など、領国経営において実務能力を発揮していました。

これは戦功中心で評価されやすい戦国武将の中では異質であり、
「戦は強くないが統治は非常に優秀」という評価につながっています。

地元視点では、戦場での評価よりも
「領主としてどう治めたか」の方が重要です。
そのため、領国経営の安定をもたらした三成は、
実務型の名君として語られやすい土壌が生まれました。

特に年貢徴収に関しては、効率的な徴収だったといわれています。
例えば

郷土史における石田三成の扱いは中央史観と大きく異なる

全国的な歴史観では、関ヶ原で敗れた西軍の中心人物として、
三成は「敗者」「策士」「嫌われ者」といったイメージで語られることが多くあります。

しかし、滋賀の郷土史や地域資料では、
三成は「近江が生んだ有能な行政官」として扱われる傾向が強いのが特徴です。

特に佐和山城跡や出生地周辺では、
三成は地域の歴史人物として顕彰されており、
単なる“敗軍の将”という評価には収まりません。

これは歴史の見方の違いによるものです。
中央史:関ヶ原の勝敗と政治的立場で評価
地域史:統治実績と地域との関係で評価

つまり、同じ人物でも
「天下分け目の敗者」として見るか
「地元を治めた領主」として見るかで、評価は大きく変わります。

「悪人像」よりも「実務家としての功績」が記憶されやすい地域構造

滋賀で三成の評価が比較的高い背景には、
江戸時代以降も地域に残り続けた歴史記憶の影響があります。

徳川政権下では三成は反逆者として語られましたが、
地域レベルでは統治の実態や人物像の伝承が完全に消えることはありませんでした。

むしろ、
・地元出身の出世人物
・領国を安定的に治めた行政官
という側面が語り継がれ、
中央が作り上げた「冷酷な悪人像」とは異なる人物像が形成されていきます。

この“地域記憶の蓄積”こそが、
現代でも滋賀において石田三成が再評価される大きな理由の一つです。

結果として、全国では賛否が分かれる人物でありながら、
近江(滋賀)では
「有能だが誤解された領主」
という評価として語られているようです。

佐和山城主・三成はなにをしたのか?

商業・流通管理

佐和山城の最大の特徴は、単なる軍事拠点ではなく「流通の要衝」を押さえた政治拠点であった点です。
近江は東西交通の結節点であり、特に琵琶湖東岸は物流の中継地として重要な位置にあったんですね。
とても重要な地域で、琵琶湖周辺は琵琶湖の幸にも恵まれていて、農業も栄えて温暖であった点で肥沃な土地でした。

三成はこの地理的優位性を理解したうえで、
城下町の整備と流通管理を重視した統治を行ったと考えられています。

戦国大名の多くが軍事力の強化に資源を集中する中、三成は

物資の流れ

人の往来

商業活動の安定
という「経済インフラ」に目を向けていました。

これは奉行として財政・兵站に関わってきた実務官僚型の思考そのものです。
戦争に勝つためには補給と財政が不可欠であり、
その基盤となる商業流通を安定させることは極めて合理的な政策でした。

派手な商業振興策の記録こそ多く残っていないものの、
交通の要衝である近江において統治が大きく混乱した記録が少ない点は、
流通管理が一定の成果を上げていた裏付けとも言えます。

検地の実務能力

三成の真価が最も発揮された分野が「検地を中心とした数値統治」です。

豊臣政権下で行われた太閤検地は、単なる土地調査ではなく、
領国支配を数値で可視化する革命的な政策でした。
その実務を担ったのが、奉行としての三成です。

土地の面積、収穫量、石高を正確に把握することで、

年貢徴収の安定

兵糧計算の精度向上

領地管理の合理化

が可能になります。

これは勘や慣習に頼る旧来の統治とは一線を画すものでした。
佐和山領においても、検地思想に基づいた管理が行われていたと見られ、
領国運営の「ブレの少なさ」は三成の行政能力の高さを示しています。
これにより、領民に過度な税制を強いることがなかったので、暮らしやすい地域だったんですね。

つまり三成は武将というより、
制度設計を理解して現場に落とし込める統治型官僚」だったのです。

領民統治

三成の領民統治は、感情や人気取りではなく
“秩序と安定”を最優先とする現実的なものでした。

厳格な性格から「冷たい」と評されがちですが、
統治者として重要なのは公平性と安定性です。
恣意的な徴税や感情的な処罰ではなく、
制度に基づいた統治を行った点はむしろ近代的とも言えます。

また、近江では三成に対する評価が極端に悪く伝承されていないことからも、
領民に対して暴政を敷いた人物とは考えにくいです。

今でもお祭りがあるんですよ!
長浜市では三成祭りというのが毎年11月上旬に開催されて、三成の法要も営まれるそうです。
ただの歴史上の人物だからと言って、敗戦の将を供養するのは慕われていなかったらあり得ないことだと思うんです。

戦場での武勇ではなく、

財政の安定

行政の効率化

領地の持続的運営
に重きを置いた統治は、派手さこそないものの、
長期的には領民生活の安定に直結します。

この「実務重視の堅実な統治」こそが、
後世の近江(滋賀)で三成が名君的に語られる評価の土台となっているのです。

なぜ三成は“悪人像”を作られたのか

家康との対立構造

石田三成が「嫌われ者」「冷酷な官僚」として語られる最大の要因は、
徳川家康との政治的対立にあります。

三成は豊臣政権の中枢を担う奉行として、
豊臣体制の維持を最優先とする立場にありました。
一方の家康は、五大老筆頭として権力基盤を着実に拡大し、
豊臣家の外側から実権を掌握していく存在でした。

この構図は単なる個人的な不仲ではなく、
「豊臣政権の官僚」対「次代の実力者」という
体制をめぐる政治的対立だったのです。

さらに三成は規律や制度を重視する性格で、
武断派の大名たちに対しても遠慮なく是正や監督を行いました。
結果として、武功を重んじる武将層から反感を買いやすく、
人望がない人物という印象が形成されやすい環境に置かれていました。

しかしこれは裏を返せば、
私情よりも公務を優先する官僚型の統治姿勢でもあり、
単純な「性格の悪さ」で片付けられるものではありません。

政治的プロパガンダ

三成の悪人像が決定的に固定されたのは、
関ヶ原の戦い後の影響が大きいと考えています。

勝者となった徳川政権にとって、
自らの正統性を強調するためには
「敵=悪」という分かりやすい物語が必要でした。

勝ったらなんでも自分をいいように言いやすいし、史実もそれで統一されていくものです。

その中で三成は、

家康に逆らった中心人物

西軍の実質的指導者

豊臣体制を守ろうとした官僚

という立場から、政治的に最も象徴化しやすい存在だったのです。

江戸時代の軍記物や講談では、
三成はしばしば「冷酷」「陰険」「融通が利かない人物」として描かれ、
対照的に家康は忍耐強く大局を見る英雄として語られました。

これは史実の単純な記録というより、
政権の安定を支えるための歴史的物語が作られていったと考えられないでしょうか。
私には三成の人物像は一次史料だけでなく、
後世の語りによって大きく増幅・固定化されていったんじゃないかと思うんです。

敗者の宿命

歴史において「敗者は悪く描かれる」という構造は珍しくありません。
関ヶ原で敗北した三成もまた、その典型例でした。

勝者の記録が後世の正史として残りやすい以上、
敗者の評価は一面的になりがちです。
実際、関ヶ原以降の評価では、
三成は「人望がなく孤立した官僚」として語られることが多くなりました。

しかし近年の研究や郷土史の視点では、
彼の評価はより多面的に見直されています。
領国経営の実務能力、財政管理、制度運用といった側面は、
戦場の勝敗だけでは測れない統治者としての資質を示しています。

つまり三成の悪人像とは、
人格そのものというより

政治的対立

勝者側の歴史叙述

敗者という立場
これらが重なって形成された「後世のイメージ」である可能性が高いのです。

この視点に立つと、
なぜ近江(滋賀)のような“統治の実績を直接記憶する地域”では
三成の評価が大きく異なるのかも、納得できませんか?

 

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まとめ|なぜ滋賀では石田三成は「名君」と語られるのか

石田三成の評価が全国と滋賀で大きく異なる理由は、
「戦の勝敗」で語られる歴史と、
「統治の記憶」で語られる地域史の視点の違いにあります。

全国的な歴史像では、三成は関ヶ原で敗れた西軍の中心人物として描かれ、
徳川家康に対抗した政治的敵対者という立場から、
冷酷・嫌われ者というイメージが後世に強く定着しました。
これは勝者側の歴史叙述や軍記物の影響を受けた、
いわば「物語としての人物像」として残ったというところです。

しかし滋賀(近江)においては、
三成は関ヶ原の敗者ではなく、
佐和山を治めた現実の領主として記憶されています。

年貢徴収の安定化、検地を基盤とした合理的な土地管理、
そして城下町整備を含む堅実な領国経営。
これらの実務的な統治は、派手な武功こそないものの、
領民の生活や地域の安定に直結するものでした。
三成はそれこそ統治の一番の成功だと考えていたんじゃないかと思うんですよね。

また、
佐和山城跡という具体的な史跡が残っていることも、
三成の評価が地元で風化しにくい大きな要因です。
土地と結びついた歴史人物は、
単なる伝説ではなく「地域の歴史」として語り継がれやすくなります。

さらに近年の歴史研究では、
三成は感情型の武将というより、
制度・財政・行政に強い“統治型官僚”として再評価が進んでいます。
この再評価の流れは、もともと実務面での評価が残っていた滋賀の歴史認識と、
非常に相性が良いものでした。

つまり、三成が滋賀で名君的に語られるのは、
郷土愛による美化だけではありません。

統治の実績が地域に残っている

史跡としての記憶が可視化されている

敗者史観から離れた再評価が進んでいる

これらの要素が重なった結果、
全国で作られた“悪人像”とは異なる、
より実務的で現実的な人物像が地元では定着したのです。

関ヶ原の敗者という一面だけで三成を評価するなら、
確かに「嫌われ者の官僚」という像になるでしょう。
しかし、領主としての統治能力や行政手腕まで視野を広げれば、
滋賀で語り継がれる評価はむしろ合理的であり、
歴史の一側面を正確に反映したものだと言えます。

そしてこの評価の違いこそが、
「なぜ滋賀では石田三成が今なお名君と語られるのか」という問いへの、
最も本質的な答えだと、三成を調べなおして思いつきました。

もし関が原という戦がなければ、三成が大将代理的立場じゃなかったら、ここまで悪人評価にならなかったんじゃないかと思うんですよね。

それが残念でなりません。