歴史の一歩
その史実は本当に真実だと思いますか?
人物・戦国時代

斎藤龍興は本当に暗君?「敗者の物語」から見る斎藤三代最後の当主

「斎藤龍興(さいとう たつおき)は、本当に救いようのない『暗君』だったのでしょうか?」

戦国史上、これほどまでに不名誉な評価を固定されてしまった武将ってあんまりいなかったと思うんですよね。
稀代の下克上、斎藤道三を祖父に持ちながら、わずか16人の手勢に城を乗っ取られ、最後は織田信長に国を追われた「三代目の無能な若様」。
それが、私たちが教科書やゲームを通じて知る斎藤龍興の姿です。

しかし、歴史は常に「勝者」の視点で語られるものです。
信長という巨大な光の影に隠された彼の足跡を丁寧に辿り直すと、そこには全く別人のような「もう一人の龍興」が浮かび上がってきます。

なぜ彼は、国を失った後も10年もの間、執念深く信長に抗い続けたのか?

なぜ一流の宣教師たちは、彼を「高潔で優れた知性の持ち主」と絶賛したのか?

本記事では、単なる「敗者」というレッテルを剥がし、一人の青年が激動の時代にどう抗い、何を思って散っていったのか──その真実の姿に迫ります。

読み終える頃、あなたの中の「斎藤龍興」という人物像は、きっと180度変わっているはずです。

14歳での家督継承と「マムシの孫」という重圧

現代で言えば、中学2年生。そんな若さで、斎藤龍興は突如として「戦国大名」という過酷な椅子に座らされることになります。

永禄4年(1561年)、父・斎藤義龍が35歳の若さで急死。後を継いだ龍興を待ち受けていたのは、あまりにも巨大すぎる先代たちの影でした。

1. 呪われた血脈と「マムシの孫」

龍興の祖父は、言わずと知れた下克上の英雄・斎藤道三(マムシ)。そして父は、その実の父(道三)を討ち果たして実権を握った義龍です。
「実力があれば親をも殺す」──そんな凄惨な下克上の代名詞とも言える斎藤家において、龍興は三代目として、周囲から常に「祖父や父ほどの器量があるのか」と値踏みされることになります。

2. 崩れゆく美濃の足並み

義龍の死は、あまりにも急でした。
カリスマ性を備えていた父がいなくなった瞬間、それまで抑えられていた家臣たちの不満や野心が噴き出します。
斎藤家を支える有力家臣「美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元)」は、一筋縄ではいかない歴戦の猛者たち。
14歳の少年にとって、彼らをまとめ上げ、組織を統制するのは至難の業でした。
私が思うに家臣たちに相当軽んじられている節もあったような気がします。

3. 宿敵・織田信長からの猛攻

龍興が家督を継いだその隙を、隣国・尾張の織田信長が見逃すはずもありません。
信長にとって龍興は、妻・帰蝶(濃姫)の甥にあたりますが、乱世に情けは無用。義龍の死からわずか2日後、信長は怒涛の勢いで美濃へ侵攻を開始します。

「マムシの孫」というブランドは、龍興にとって誇りである以上に、逃れられない重圧(プレッシャー)でした。
若き当主は、家臣たちの冷ややかな視線と、信長という天才の猛攻の板挟みになりながら、その政治家としての第一歩を踏み出したのです。
たった14歳の中学生が四面楚歌のような状態でどれほど心細かったか・・・。
それを思うとかわいそうだなと感じてしまいます。

前代未聞の「城乗っ取り」──竹中半兵衛が仕掛けた命がけの教育

永禄7年(1564年)。美濃の国主となった龍興を、歴史に刻まれる屈辱が襲います。
後に豊臣秀吉の軍師として名を馳せる天才・竹中半兵衛が、わずか16人の手勢で、斎藤家の本拠地・稲葉山城を占拠してしまったのです。

1. 側近政治の罠と、深まる「孤独」

当時、龍興は斎藤飛騨守(ひだのかみ)という側近を重用していました。
これを歴史書は「奸臣(悪い家臣)を近づけた」と切り捨てますが、別の視点で見れば、10代の龍興にとって「古参のうるさい老臣たちではなく、自分の言葉が通じる若手を登用して組織を刷新したい」という、若きリーダーゆえの孤独な足掻きだったのかもしれません。

しかし、この偏った登用が、真面目な実務派であった竹中半兵衛を絶望させます。

2. わずか16人のクーデター

半兵衛の作戦は、鮮やかで、かつ大胆不敵でした。
「城内にいる弟の見舞い」と称して、武器を隠した長持を運び込ませると、夜陰に乗じて一気に蜂起。
油断しきっていた城内はパニックに陥り、龍興の盾となるはずだった側近・飛騨守はあえなく討たれました。

主君である龍興は、命からがら城を脱出します。
雨の中、着の身着のままで山を下りる龍興の背中に、かつての家臣たちはどのような視線を送ったのでしょうか。
この瞬間、龍興は「名門の当主」というプライドを完全にへし折られたのです。

3. 「返却」という名のメッセージ

この事件の最も衝撃的な結末は、半年後に訪れます。
城を占拠し、織田信長からの誘いさえも蹴った半兵衛は、なんと「何事もなかったかのように、龍興に城を返して去った」のです。

なぜ半兵衛は、苦労して手に入れた難攻不落の城を返したのでしょうか?
そこには、言葉にできないほどの重いメッセージが込められていました。

「この城を守るのは、壁や石垣ではない。人の心である」

半兵衛は、実力行使によって龍興に「統治者の覚悟」を突きつけたのです。
「暗君」と揶揄される龍興ですが、この事件の後、彼は逃亡先で自堕落な生活を送るのではなく、再び城へ戻り、信長に抗う道を選びます。

この屈辱は、龍興を「ただの若様」から、「執念の復讐者」へと変貌させるための、手痛い洗礼だったのかもしれません。

信長包囲網のフィクサーへ──空白の10年と宣教師が驚愕した知性

永禄10年(1567年)、ついに本拠地・稲葉山城は落城し、龍興は美濃を追われます。多くの敗軍の将がここで歴史の表舞台から消える中、龍興の「本当の戦い」はここから始まりました。

1. 執念の「信長包囲網」コーディネーター

美濃を追われた後の龍興は、まるで「信長の影」のように、信長が敵対する勢力の中に必ずその姿を見せるようになります。

伊勢の長島一向一揆に身を投じ、泥まみれになって戦う。

摂津(大阪)へ渡り、三好三人衆と共に信長軍を迎え撃つ。

最終的には越前の朝倉義景を頼り、信長包囲網の一角を担う。

これを「あちこちを渡り歩く根無し草」と見るのは早計です。彼は「斎藤家の嫡流」というブランドと、各地の勢力をつなぎ合わせる外交官・フィクサーとして、信長の喉元に刃を突きつけ続けていたのです。

2. ガスパル・ヴィレラを沈黙させた「哲学的な問い」

龍興が畿内に潜伏していた頃、歴史に残る驚くべきエピソードがあります。
当時、最先端の知識を持っていたイエズス会の宣教師、ガスパル・ヴィレラとの対話です。

龍興は、単なる好奇心でキリスト教に触れたのではありません。彼はヴィレラに対し、現代の哲学者も驚くような鋭い質問を投げかけました。

「人間がデウスに祝福された万物の霊長だと言うならば、なぜこの世はこれほどまでに残酷な戦乱が続くのか? なぜ、善良に生きる者たちが報われず、不幸に見舞われるのか?」

この問いは、自身の没落や民の苦しみを目の当たりにしてきた龍興の、心の底からの叫びでした。宣教師たちは、この若き亡命者が発した「世界の矛盾」を突く深い洞察力に圧倒されます。

家臣や領民のことを真剣に考えて憤っていたんだと思います。

3. ルイス・フロイスが記した「真実の姿」

あの毒舌で知られ、日本の武将たちを厳しく評したルイス・フロイスも、著書『日本史』の中で龍興について驚くべき記述を残しています。

「彼はたいへん優秀で、思慮深い人物であった」

「酒色に溺れる暗君」という世間の風評とは真逆の、「高潔で、深い知性を持つ青年」。
これが、利害関係のない第三者(外国人)から見た龍興の真実の姿でした。

彼は美濃という「地」を失いましたが、その代わりに「世界」という広い視点と、いかなる困難にも屈しない「不屈の精神」を手に入れていたのです。

武の極み:剣豪・塚原卜伝が認めた才能

龍興を「軟弱な二代目」と決めつける説を真っ向から否定する、もう一つの事実があります。
それは、彼が伝説の剣聖・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)から直接指導を受けていたという記録です。

1. 選ばれし者だけの「奥義」

当時、卜伝から奥義を授けられたのは、足利義輝(剣豪将軍)や北畠具教(伊勢の国司)といった、当代随一の武人たちだけでした。
龍興もまた、卜伝が美濃を訪れた際に教えを受け、一説には秘剣「一の太刀」を伝授されたとも言われています。

2. 「酒色に溺れる男」に奥義は授けられない

剣術の修行、それも卜伝のような達人の指導は、凄まじい集中力と日々の節制を必要とします。
もし龍興が世間で言われるような「酒と女に溺れる自堕落な男」であったなら、厳格な卜伝が自らの流派の奥義を授けるはずがありません。
卜伝は、龍興の中に「武芸に打ち込むストイックな精神」と、「奥義を理解しうる筋の良さ」を見抜いていたのではないでしょうか。

3. 敗北しても折れなかった「芯」の強さ

城を追われた後の10年に及ぶ逃亡生活と再起への挑戦。その執念を支えていたのは、単なる権力への執着ではなく、剣術修行によって鍛え上げられた「折れない心」だったのかもしれません。
彼は、戦国大名としての領土は失いましたが、最後まで「一人の武人」としての誇りは失っていなかったのです。

こうしてみると龍興はそうとうメンタルも強そうですよね。

刀根坂に散った美濃の意地──26歳の短い生涯の終わり

天正元年(1573年)8月。斎藤龍興の長い放浪と抵抗の旅は、越前の地でついに終わりの時を迎えます。

織田信長が朝倉義景を討つべく越前へ侵攻した「一乗谷城の戦い」。
その撤退戦の最中に起こった「刀根坂(とねざか)の戦い」が、彼の最期の舞台となりました。

1. 因縁の対決と、皮肉な最期

朝倉軍が壊滅的な状況に陥る中、龍興は最後まで逃げることなく戦い抜きました。
彼を討ち取ったのは、かつて父・義龍に仕え、後に信長へと寝返った「美濃三人衆」の一人、氏家直元の嫡男・氏家直昌であったと伝えられています。

かつての家臣の手によって、奪われた故郷へ帰ることなく刃に倒れる。26歳という、あまりにも若すぎる死でした。

2. 「敗者の物語」が語りかけるもの

戦国という時代は、勝った者が「正義」であり、負けた者は「無能」として記録されます。
龍興もまた、信長という圧倒的な勝者の物語を際立たせるための「踏み台」として、歴史の闇に葬られてきました。

しかし、私たちが辿ってきた彼の足跡はどうでしょうか。

14歳で名門を背負わされた孤独。

竹中半兵衛に屈辱を味わわされても、再び立ち上がったガッツ。

キリスト教の神に世界の矛盾を問いかけた知性。

剣聖・塚原卜伝が認めた武芸の才。

これら全てを併せ持つ男が、単なる「暗君」であったはずがありません。

まとめ:斎藤龍興とは何者だったのか

斎藤龍興の人生は、確かに「失敗」の連続だったのかもしれません。
しかし、国を失ってもなお10年間信長を脅かし続け、最先端の知識に触れ、自己を研鑽し続けた彼の生き様は、「諦めなかった敗者」としての誇りに満ちています。

もし、彼がもう少し早く生まれていたら。 あるいは、信長という規格外の天才と同じ時代でなければ。 歴史の歯車が少し違えば、彼は「美濃の賢君」として名を残していたのかもしれません。

勝者の陰に隠れた「敗者の真実」を知ることで、歴史はより深く、人間臭く見えてきます。
次に「斎藤龍興」の名を目にしたとき、あなたはそこに、酒に溺れる暗君ではなく、冷たい雨の中で刀を握り、遠い美濃の空を想う一人の若き知将の姿を見るはずです。

豊臣兄弟でどんな形で龍興は描かれるのか、楽しみにしたいと思います。