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歴史の一歩
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人物・江戸時代

大山捨松はなぜ捨松と名付けられたのか?実母の切実な願いとは

「捨てる松」と書いて「捨松(すてまつ)」。

明治の鹿鳴館で「華族の貴婦人」と謳われた大山捨松。
その優雅な姿とは裏腹に、彼女の名前に使われた「捨」という一字に、衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。

「親に捨てられた子なの?」
「なぜ、女の子にそんな過酷な名前を付けたのか」

実は、この名前には、会津戦争という凄惨な歴史を生き抜いた実母・山川えんの、涙なしでは語れない「究極の愛」が込められていました。

彼女の幼名は「さき」
家族に愛された少女が、なぜ12歳でその名を捨て、過酷な運命を背負う「捨松」へと改名しなければならなかったのか。

本記事では、日本初の女子留学生としてアメリカへ渡った大山捨松の名前の由来と、そこに秘められた母の切実な願いを、当時の歴史背景とともに詳しく紐解きます。

この記事を読み終える頃には、あなたの中で「捨松」という言葉の響きが、きっと美しく、気高いものに変わっているはずです。

衝撃の名前「捨松」。実は生まれた時の名ではなかった?

「捨松(すてまつ)」という名前を聞いて、多くの方が抱くのは「生まれた時からその名前だったの?」という疑問ではないでしょうか。
しかし、彼女にはもともと、別の可愛らしい名前がありました。

幼名は「さき」

会津藩の家老・山川家に生まれました。
大山捨松は万延元年(1860年)、会津藩の重臣である家老・山川重固(しげかた)の五女として誕生しました。
その時の名は「さき」。

さらにいえば、当時の山川家は、藩内でも屈指の名門でした。
幼い「さき」は、厳格ながらも深い愛情を持つ両親や、優秀な兄弟たちに囲まれ、武家の娘として大切に育てられました。
しかし、彼女がわずか8歳の時、明治維新の激流が会津を襲います。
戊辰戦争における過酷な籠城戦を経験したことは、彼女のその後の人生に大きな影響を与えることになったんです。

名前が変わったタイミング

「さき」という名が「捨松」へと変わったのは、彼女が12歳(数え年)の時のことです。

明治4年(1871年)、明治政府は岩倉使節団の派遣に際し、日本初の「女子留学生」を募集しました。
国費でアメリカへ渡り、進んだ教育を受けて日本の近代化に貢献する——。
この前代未聞のプロジェクトに、敗戦後の苦境にあった山川家は「さき」を送り出す決意をします。

なぜ改名が必要だったのか:生死を分かつ「国家の命運」を背負って

彼女が改名したのは、単なる気分転換や流行ではありませんでした。
そこには、現代の「海外留学」とは全く異なる、あまりにも重い背景がありました。

「今生の別れ」という覚悟

当時のアメリカ行きは、二度と生きて日本の土を踏める保証がない、生死を分かつ旅立ちでした。
母・えんはその覚悟を自分とさきに植え付けるために捨松という名前をつけたんだと思います。

「敗者の娘」から「国の代表」へ

会津藩という「賊軍(敗者)」の汚名を着せられた家系から、国の期待を背負う留学生となるにあたり、過去の自分を切り捨て、新たな運命を切り拓く必要がありました。

母が授けた「お守り」

幼い娘を一人異国へ放り出す母・しげにとって、改名は「さき」という過去の愛娘と決別し、過酷な使命を全うさせるための、言わば魂の儀式だったのです。
捨てるつもりで帰りを待つ(松)といういみだったのです。
なんという覚悟でしょうか。
アメリカに行ってしまったらもう会えないかもしれない。そんな切ない覚悟のあらわれの捨松という名前でした。

歴史の視点:
12歳の少女が一人で海を渡る。
その不安を打ち消し、強い精神力を与えるために授けられたのが、あの「捨松」という衝撃的な名前だったのです。

「捨てて待つ」――母・えんが名前に込めた「2つの意味」

12歳の愛娘に「捨松」という衝撃的な名を授けた母・えん。
夫を亡くし、出家して勝聖院と名乗っていた彼女が、この名に込めたのは単なる決別ではありませんでした。
そこには、母としての「究極の覚悟」と「再会への祈り」という2つの相反する願いが込められていたのです。

【意味①】捨てたつもりで励みなさい(断腸の決別)

「捨」という一字には、「一度は死んだもの、捨てたものとして諦める」という壮絶な覚悟が込められていました。
当時のアメリカ行きは、言葉も文化も違う未知の世界への旅立ちです。
母・えんは「さき(捨松)」に対し、「日本や家族への未練を一切捨て、後ろを振り返らずに異国での学問に励みなさい」と突き放すことで、娘の退路を断ち、強い精神力を与えようとしたのです。

【意味②】帰りを「待つ」(再会への祈り)

しかし、その厳しさのすぐ隣には、母としての本心が隠されていました。それが「松(まつ)」という一字です。
「一度は捨てたつもりで送り出すが、母はいつまでもあなたの帰りを**『待って(松)』**いる」
厳しい言葉で送り出しながらも、いつか立派に成長して再会できる日を、松の木のように動かず待ち続ける。この「松」の一文字こそが、母・えんが娘に届けたかった一番のメッセージでした。

背景にある「会津の悲劇」と、山川家の誇り

なぜ母・えんは、これほどまでに過酷な決意をしなければならなかったのでしょうか。
その背景には、山川家が経験した「会津戦争」の深い傷跡がありました。

落城の記憶と「敗者」の苦しみ

慶応4年(1868年)、戊辰戦争の舞台となった会津若松城(鶴ヶ城)。
当時わずか8歳だった捨松は、母・えんたちと共に籠城し、飛び交う砲弾の中で不発弾に濡れ布団を被せて消火する「焼玉押さえ」を経験したと伝えられています。
会津藩が敗北し、山川家は「賊軍」の汚名を着せられ、厳しい生活を余儀なくされました。
この時の「負けたままでは終われない」という強い悔しさが、山川家の人々の原動力となっていたのです。

「敗者の娘」から「日本の希望」へ

そんな折に舞い込んだ女子留学生の募集。
母・えんは、まだ幼い娘を異国へ出すことに周囲が反対する中、「これは山川家、そして会津の誇りを取り戻すチャンスである」と確信していました。
愛娘を「捨てる」という言葉で送り出した裏には、「敗者の娘として終わるのではなく、新しい日本の礎になってほしい」という、武家の女としての気高い誇りがあったのです。

名に恥じぬ活躍。「ステマツ」がアメリカで得たもの

母・えんから「捨松」という過酷な名を与えられ、12歳で海を渡った少女。
彼女は異国の地で、その名に込められた期待を遥かに超える輝きを放つことになります。

全米が注目した才女:名門ヴァッサー大学を優秀な成績で卒業

アメリカに渡った捨松は、コネチカット州の牧師レオナード・ベーコンの家に預けられ、そこで生涯の親友となるアリス・ベーコンらと共に育ちました。

彼女がその才能を世界に知らしめたのは、ニューヨーク州の名門女子大学ヴァッサー大学でのことです。

日本人女性初の学士号:1882年(明治15年)、彼女は日本女性として初めて大学を卒業し、学士号を取得しました。

驚異的な成績:卒業生全体の中で第3位という極めて優秀な成績を収め、卒業式では全校生徒を代表して演説を行うほどの才女として称賛されました。

学級委員長にも選出:その知性と気品ある振る舞いはアメリカ人学生たちからも深く愛され、学級委員長(クラスプレジデント)に選ばれるほどの人望を集めました。

「捨て」られた過去を力に:差別に負けず学問を吸収した10年間

異国での生活は、決して華やかなことばかりではありませんでした。
当時のアメリカにはまだ人種差別が根強く、東洋から来た少女への好奇の目や冷遇もありました。
また、会津に残した家族への募る想い、いわゆるホームシックに苛まれる夜も少なくなかったはずです。

しかし、彼女を支えたのはやはり「捨松」という名でした。
「私は一度捨てられた身。
ここで結果を出さなければ、会津の、そして山川家の誇りは取り戻せない」
彼女は母の覚悟を糧に、英語だけでなく数学、哲学、歴史、そして後の看護教育に繋がる生理学など、当時の最先端の知性を貪欲に吸収し続けました。

母との約束:10年後の帰国と感動の再会

1882年(明治15年)、約11年におよぶ留学生活を終えた捨松は、ついに帰国の途につきます。

横浜港に降り立った彼女が、真っ先に向かったのは母・えんのもとでした。
12歳で別れたきりだった娘は、知性と教養に溢れる22歳の美しい女性へと成長していました。
「捨てたつもり」で送り出しつつも、心の中で片時も忘れず、まさに「松(待つ)」の如く娘の帰りを待ち続けた母・えん。

言葉の壁(長年の留学で捨松は日本語をかなり忘れてしまっていました)はありましたが、二人は手を取り合い、涙を流して再会を喜びました。母が授けた名が、娘を立派な女性へと導き、そして再び二人を引き寄せた――歴史の教科書には書かれない、最高に美しい「伏線回収」の瞬間でした。

現代にも通じる、大山捨松の「生き様」

帰国後の捨松を待っていたのは、必ずしも理想的な環境ではありませんでした。
当時の日本はまだ「女子に高等教育は不要」という考えが根強く、11年かけて身につけた高度な知性を活かす場所がすぐには見つからなかったのです。
これはその留学生の教育的施策が失敗に終わっていたと当時の官僚たちは結論付けていたからです。
しかし、彼女は決して腐ることなく、その名を糧に自らの進むべき道を切り拓いていきました。

津田梅子らとの絆:女子教育の礎を築いた功績

捨松の功績として最も有名なのは、同じ女子留学生だった津田梅子への支援です。
若くして自立を目指す梅子に対し、捨松は陸軍卿・大山巌の妻という社会的地位を活かして、強力なバックアップを行いました。

女子英学塾(現・津田塾大学)の創設:資金調達や人脈作り、そして時には講師として、梅子の理想を形にするために尽力しました。

「教育こそが女性を救う」という信念:アメリカで最先端の女子教育を肌で感じてきた彼女だからこそ、日本の女性たちが自立できる環境作りを生涯の使命としたのです。

看護教育への尽力:慈善活動に命を燃やした晩年

捨松の情熱は、教育の枠を超えて「医療・看護」の分野にも注がれました。
彼女は、日本におけるボランティア活動の先駆者でもありました。

日本赤十字社での活動:日清・日露戦争の際、貴婦人たちが後方支援を行う「有志看護婦人会」を主導。自ら包帯を作り、負傷兵の救護に当たりました。

看護師の地位向上:当時はまだ地位の低かった看護職を、専門的な技術を持つ「職業」として確立させるために、アメリカで学んだ衛生学や看護の知識を惜しみなく共有しました。

まとめ
捨松という名は、彼女にとって「逆境を跳ね返すお守り」だった
「捨松」という名は、彼女にとって決して重荷ではありませんでした。むしろ、困難にぶつかるたびに、自分を送り出してくれた母の覚悟、そして自分を待っている故郷の存在を思い出させてくれる**「最強のお守り」**だったのです。
「捨てられた」過去を「選ばれた」誇りに変えた彼女の生き様は、100年以上経った現代を生きる私たちにも、多くの勇気を与えてくれます。

【まとめ】
大山捨松。その名前の由来を紐解くと、そこには単なる「不吉な漢字」ではなく、明治という激動の時代を生き抜こうとした親子の深い愛情が刻まれていました。

結論:捨松とは、母が愛娘に贈った「究極の愛の形」
母・えん(勝聖院)が名付けた「捨松」とは、以下の二つの想いが結実したものでした。

「捨て」:後ろを振り返らず、日本の未来のために学問に励めという**「母の覚悟」**。

「松」:いつまでも、いつまでも、あなたの帰りを待っているという**「母の祈り」**。

突き放すことで強く育て、待つことで愛を伝える。この「捨松」という名があったからこそ、彼女は異国の地で孤軍奮闘し、日本の近代化に多大な貢献を果たすことができたのです。

読者へのメッセージ:過酷な名を背負い、輝かせた強さ
私たちは時に、自分の置かれた環境や運命を呪いたくなることがあります。しかし、捨松はその過酷な名前さえも自分の力に変え、自らの手で人生を輝かせました。

「名前がその人を決めるのではなく、その人が名前に命を吹き込む」。

大山捨松の生き様は、何かに挑戦しようとする時、あるいは逆境に立たされた時、私たちの背中をそっと、しかし力強く押してくれるはずです。