平安時代後期、絶大な権力を誇った藤原道長。そのイメージといえば、豪胆で冷酷、奔放な人物と言われています。
しかし、実は道長には、意外にも気弱で泣き虫な一面があったのです。
このブログ記事では、そんな意外な道長の裏の性格を、歴史上のエピソードを交えながら徹底解説します。
ちなみに今回のお話は古典の「大鏡」からの考察です。
藤原道長の豪胆な性格が光る!驚きのエピソード3選
道長さんの豪胆な性格と言えば、大河ドラマ光る君への中でもありましたが、花山天皇の肝試し事件が記憶に新しいと思います。
花山天皇の肝試し
道長さんがまだ若かりし頃、花山天皇から深夜の宮中を巡るという無謀な肝試しの命令を受けました。
当時、宮中は暗闇に包まれ、鬼が出没するとの噂も絶えませんでした。
花山天皇の御世の事です。
雨の降る気味の悪い夜に、花山天皇と何人かの公達が怪談話をしていたそうです。
そんな中で花山天皇は言い放ちました。
「お前たちこんな夜に一人で肝試しとかいける?」
そんな煽り文句を言われてほとんどの人は「無理です。」とあわてて答えたんですが、道長さんだけは「いきますよ。」と涼しく答えます。
そのあおりを受けて兄たちの道隆、道兼も行かされてしまいます。
兄たちは、不気味な声を聴いたとか、鬼を見たとかいいながら帰ってきました。
当時の宮中は不審死事件や鬼の目撃情報などもありましたから、真っ暗な雨が降っている場所で、怖くない方がおかしいのですが、道長さんはなんと大極殿に行き、柱を削ってそれを証拠として帰ります。
兄の二人が逃げ帰ってきたのを見て花山天皇は大爆笑していたのですが、その兄たちに対して、道長さんのその様子に面白くなかったようで、次の日その削られた木片を確かめに行かせたようです。
しかもその木片は高御座という天皇の座る椅子でした。
それを削って持ち替えて証拠にするなんて、豪胆というより、恐れ知らずですよね。
反対勢力から見れば、ふてぶてしいとしか言いようのない態度です。
まぁ、それを確かめに行かせる花山天皇の性格の悪さもアレですけどね。
甥の伊周へのけん制
道隆がまだ存命で道隆家が権勢を誇っていたころのことです。
この時は伊周は道長より8歳も年下だったにもかかわらず、道長より冠位は上でした。
そんな時に催された競射の会で、御曹司である伊周の当たり矢が少なかったために道隆が伊周に花を持たせたかったのか延長戦の申し出をします。
それを快く受け入れた道長さんですが、ここで豪胆爆裂発言をします。
「私の家門から天皇・后を立てることができるなら、中心にあたれ!」
そして見事にドストライク。
その次に伊周が射たところ、まったく命中しないありさまで…。
これを見た道隆は顎が外れそうだったでしょう。
だって自分にとって代わろうとしている弟の存在と、動揺して的を外している我が息子。
続く二本目。
またしても道長さんは爆弾発言。
「私が摂政関白になれるなら、的にあたれ!」
そういいながら射たら、またしても的の真ん中、ドストライク。
これを見た道隆は、伊周に二本目をいることを止めさせたそうです。
フラグ立ってますよね。
この後の伊周の運命と、道長の人生。
暗示するものがありますよね。
長久4年のはしか
このエピソードは豪胆というよりは強運を表すエピソードです。
長久4年に京都でははしかが流行しました。
当時ははしかではなく流行り病というカテゴリでしたが、それで公卿レベルの人たちがバタバタとかかり、死んでしまう中で、道長一人かからなくて、一人参内したということや、かかっても無事回復したというエピソードが大鏡の中や、道長自身が書いたとされる御堂関白期の中でも書かれています。
道長さんは豪胆なだけではなく、幸運の持ち主だったようですね。
チキンな道長
これまで、豪胆で自信家、権力や運に愛されたオトコ・道長の話をしてきましたが、実は私の印象は
「結局、アンタってチキンだよね・・・。」
って感じです。
本当に道長さんってチキンすぎてウケます。
しかも、それを自分の日記的存在の「御堂関白記」に事細かに書いてあって、大鏡の道長像には少しかけ離れてるというか…乖離を感じてしまうほどです。
そんなことまで書いちゃうの?みたいな感じで、まぁ誰にも見せることは許さないと言い残したと、言われている御堂関白記…。
道長さんにしてみたら、そんなに勝手に読まないでって嘆いているかもしれませんね。
病弱だった道長
道長さんは糖尿病だったとされています。
そのため、のどの渇きや多汗、だるさや不眠などに悩まされたと御堂関白記には書かれています。
身近で見ていた藤原行成が書いた日記「権記」には病気になってはメンタルヨワヨワな様子がかなり多く書かれています。
例えば病気になるたびに一条天皇に辞表を出して、受理されずに怒り狂う様子など小心者で癇癪持ちだったのかな?などの印象があります。
御堂関白記に見るチキンな道長
なぜか御堂関白記では天候の様子を書いています。
まるで小学生の夏休みの日記みたいです。
例えば、雷の記述は上巻に27回も載っています。
「夜中に雷。めっちゃ怖かった。」みたいな記述もあり、雷怖いって…って子供じゃあるまいし…本当に豪胆と言われている人と同一人物なのか?と思ってしまいます。
なんか素直というか純朴というか…。
この発言は伊周が死んでから数か月後で、祟りとか怨霊とか目に見えないものに怯えていた時なので、分からないではないんですけどね。
この時の道長の年齢は?
伊周が亡くなったのは西暦1010年2月14日(寛弘7年1月28日)、享年37歳でした。
その数か月後のこの日記です。
道長さんは伊周よりも8歳年上ですから、37+8歳=45歳です。
45歳のおじさんが「雷怖いよう~」って言ってる図って…本当に豪胆だったですかね??
伊周の死に感じていたものは?
伊周の死因は病死です。
それは妹の定子の産んだ敦康親王が天皇に即位する可能性も薄れた中での事でした。
ここで暗躍していたのは、言うまでもなく道長さんで、娘の彰子の産んだ後の後一条天皇を天皇に据えるべく張り切っていたので、伊周には完ぺきに恨まれてると思っていたのでしょう。
だから雷が鳴ると、伊周の亡霊が・・・なんて発想になっていったんだと思います。
当時の病は祟りによるものと思われていた?
実際、当時はすぐに人を呪ったり、呪詛するなんてことは日常茶飯事で、安倍晴明みたいな祈祷師が重用された時代でしたから、道長さんが怯えるのも自業自得とはいえ、納得なんですけどね。
意外におちゃめな一面も
お茶目かどうかは読む人によるのかもしれませんが、現代でいうところの自己肯定感強めな内容の記述もあるんです。
「俺ってすごんじゃね??」みたいな発言があったかと思えば、あの人は自分の事をどう思っていたんだろうみたいな発言や、嫡妻の倫子さんに気を使っている様子もあったりと、本当の性格…表と裏の顔がありすぎて、どっちが裏なのか謎です。
びっくりな記述もあり
一条帝がなくなった時に、「崩給」(天皇がなくなった時に使われる言葉で「崩御」という意味)という事が書きたかったはずなのに、そこに書いてあったのは「萌給」でした。
天皇が死んで「萌え~~」みたいな発言ってびっくりなんですが、これはわざとだったのか、本当に書き間違ったのか…それは道長さんにしかわからないですよね。
そして道長さんの字は意外につたなく、漢字もあまり使えないんじゃ?と思うこともしばしばあります。
2024年の大河ドラマはその辺りは忠実だなあと思いながら見ています。
まとめ
なにもなければ、ちょっと栄えた家門の3男坊として、出世はないけど気楽な人生だったかもしれない道長くん。
運と才覚と、ヨメの実家の力もあって、めきめき出世していった道長くん。
でも、どんなに出世してもチキンであることはかわりなく、それを偽って日々を送るのはそれなりに辛かったんじゃないかと思います。
権力があっても幸せかどうかをきめるのは自分自身ですね。
道長くんは幸せだったのでしょうか?