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【辞世の句シリーズ】織田信長の辞世の句の意味とその句が読まれた人生とは?

織田信長・・・この名前をしらない日本人はいないのではないでしょうか?
歴史上のレジェンド、ファンも多いこの人物は知っての通り明智光秀に襲撃されて49歳で命を落としたとされています。
でも、その織田信長がどんな最後の言葉を残したのか知らない方も多いと思います。
今回はその織田信長の最後の言葉を軸に生涯をがんが得てみたいと思います。

織田信長とは?戦国最強武将の生涯

織田信長(1534年〜1582年)は、日本の戦国時代において最も革新的かつ影響力のある武将の一人です。
尾張国(現在の愛知県)で生まれ、若くして家督を継ぎました。
幼少期は「うつけ者」と呼ばれるほど奇抜な行動が多かったと伝えられていますが、それは独創的な発想力と柔軟な思考力の表れとも言われています。

そんな信長の人生は、常にやっぱり戦の連続でした。
尾張・美濃を統一し、さらに東海道沿いの大名たちを次々と制圧していきます。
従来の戦術や城の構造、兵站の概念を革新し、鉄砲の積極的な導入や楽市楽座の政策など、政治・経済・文化にまで影響を及ぼしました。
戦国時代を語るうえで、信長の存在は避けて通れません。
うつけ者は実は戦の天才だったし、市場を活性化させるアイディアや柔軟さがものすごくあった人だと思います。

しかし、信長の生涯は成功だけでなく波乱に満ちていました。
1582年、本能寺で家臣・明智光秀に謀反を起こされ、最期を迎えます。
この瞬間こそ、彼の辞世の句「是非に及ばず」に凝縮された彼の人生観が表れているんじゃないかと思います。

信長と明智光秀の関係

辞世の句を理解する上で欠かせないのが、明智光秀との関係です。
二人の出会いは1568〜1570年頃、信長が上洛した前後とされます。光秀は戦術や外交に長け、丹波攻略などで大きな成果を挙げました。信長にとって光秀は信頼できる家臣であり、京都の政治や朝廷交渉など重要な役割を任されていました。

しかし次第に関係は悪化します。理由は諸説あり、

領地替えによる不満

家臣間の確執

信長の苛烈な性格との衝突
などが挙げられます。

そして、1582年、光秀は突如として謀反を起こし、本能寺の変が勃発します。

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年表で見る織田信長の生涯

1534年 0歳 尾張国に生まれる
1549年 15歳 濃姫(帰蝶)と結婚
1551年 17歳 父・信秀が死去、家督を継ぐ
1560年 26歳 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
1568年 34歳 足利義昭を奉じて上洛、室町幕府の実権を握る
1568〜1570年頃 34〜36歳 明智光秀と出会い、家臣として登用
1571年 37歳 比叡山延暦寺を焼き討ち
1575年 41歳 長篠の戦いで武田勝頼を破る
1582年 48歳 本能寺の変で自害

織田信長の辞世の句、①

信長が本能寺で迎えた最期に残したとされる辞世の句は、非常に短く簡潔です。

「是非に及ばず」

その短さゆえに、意味や背景にさまざまな解釈がなされてきました。
辞世の句としては異例の簡潔さですが、信長の性格を象徴するかのような、鋭く無駄のない表現です。

現代語訳と意味

現代語訳すると、

「もはや、どうすることもできない」

という意味です。
言葉自体は簡単ですが、信長の生涯を振り返ると深い意味があります。
常に挑戦を続け、戦国の荒波を乗り越えてきた信長が、最後の瞬間に達した冷静な諦観と覚悟を感じさせます。

この短い句には、以下の心理が込められていると考えられます。

冷静な現実受容:最期の瞬間まで、自分の力で避けられない運命を理解していた

大胆さと合理性:長々と悔恨や遺訓を残すのではなく、短く鋭い言葉で自己を表現

死生観の哲学:戦国という激動の時代を生き抜いた者だけが持つ覚悟

織田信長の辞世の句、②

人間五十年
下天のうちをくらぶれば
夢幻の如くなり
一度生を得て滅せぬもののあるべきか

この句は、実は信長が自ら即興で詠んだものではなく、幸若舞「敦盛」の一節を引用したものとされています。
本能寺の変の朝、明智光秀の軍勢に囲まれる直前、信長はこの節を舞いながら口にしたと伝えられています。

辞世の句の意味

現代語にすると、こうなります。

人の世の寿命は五十年ほど。
天上界の長い時の流れに比べれば、夢や幻のように儚いものだ。
この世に生を受けた者で、死なない存在などあるはずがない。

この句は「人生の無常」を歌ったものであり、仏教的な世界観を背景にしています。
信長は当時48歳。自らの死期を悟ったというよりも、「いずれ人は死ぬ」という諦観と、「死を恐れない覚悟」を示していたと考えられます。

心理分析・信長の死生観

信長の辞世の句からは、彼の生涯と死生観が浮かび上がります。戦国最強の武将として常に命を懸けた日々、数々の決断と戦略を重ねた人生、そして最期に至る冷静さ。これらを背景にすると、「是非に及ばず」という短い句には、信長自身の人生哲学が凝縮されていることがわかります。

信長の性格は合理的かつ大胆で、情緒的に長々と語ることを好みませんでした。そのため、辞世の句も非常に短く、無駄のない表現となったのです。また、死を目前にしても恐怖や後悔ではなく、受容と覚悟を示すこの句は、戦国の武将としての覚悟を象徴しています。

本能寺の変と辞世の句の背景

1582年6月2日、京都・本能寺に滞在していた信長は、明智光秀の軍勢に包囲されます。兵力差は圧倒的で、逃げ場はありませんでした。
このとき信長は、幸若舞「敦盛」を舞いながら「人間五十年…」と歌い、潔く戦い、自害したとされます。そして是非に及ばずとも漏らしていた・・・このことから考えると、「死は避けられない」という受容と、武士としての美学だと思うんですね。
そしてそれだけの覚悟があったんじゃないかと思います。
信長にとって、敗北や捕縛は屈辱であり、戦国武将らしい散り際を選んだといえるでしょう。

信長の最期のエピソード

1582年6月2日、本能寺に滞在中、家臣の明智光秀による謀反が発生します。
信長は逃げる間もなく自害を選びました。この時、家臣や部下たちは動揺しましたが、信長は最後まで冷静で、部下を気遣う姿もあったと伝えられています。

また、信長の政策や城づくり、文化支援の取り組みも彼の死後に大きな影響を与えました。
楽市楽座による経済活性化や南蛮文化の受容は、後の豊臣秀吉や徳川家康にも受け継がれ、戦国時代の革新者としての地位を確立しました。

織田信長ゆかりの地

信長ゆかりの城や史跡は、日本各地に点在していますが、主な最重要史跡のご案内です。

岐阜城:信長が斎藤氏を破って岐阜城を拠点とした場所(実際にいきましたが、山の上にある風光明媚な場所でした)

岐阜城岐阜城

安土城:天下統一を目指した象徴的な城(ここに行くとなんとも言えない気持ちになりました。しかも天守にあがるまでに家臣たちの館のあった場所の案内があって興味深かったです。この辺りを当時の人物たちは歩いたのかな?とかいろいろ想像しました)

安土城(復元)安土城(復元)

本能寺(京都):最期を迎えた場所で、今も史跡として保存されています(今は面影はあまりないですし、実際に信長が落命した本能寺は別のところにあるみたいです。)

訪問記事や写真を加えると、読者の興味も高まり、滞在時間や回遊率の向上にもつながります。

まとめ

織田信長の辞世の句「是非に及ばず」は、短い言葉ながら彼の生涯、死生観、合理的かつ大胆な性格を象徴しています。
戦国最強の武将として生き抜いた信長の最期を振り返ることで、単なる句紹介にとどまらず、人生哲学や歴史的背景を学べる記事となります。