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人物・平安時代

安倍晴明 ってどんな人?陰陽師から意外な会計の仕事まで

NHK大河ドラマ【光る君へ」で安倍晴明がいい味出してます。
それはユースケサンタマリアが演じているというのがミソというか・・・。

「安倍晴明」という名前を聞くと、あなたはどんな人物を想像しますか?
星を見上げ、呪文を唱える神秘的な陰陽師?
それとも、平安時代の出来事を予言する占い師?

実は、安倍晴明は、これらのイメージとは少し異なる顔も持っていたのです。
朝廷の財政を管理する主計権助という役職に従事していました。

主計権助とは会計の仕事のようなもので、国家予算などを計上するお仕事です。
そんな意外な事実をご存知でしょうか。
陰陽師としての活躍はもちろん、会計の仕事を通して見えてくる安倍晴明の新たな一面。
今回は、そんな彼の魅力に迫ります。

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安倍晴明の陰陽師としてのキャリア

清明の陰陽師のキャリアは実は40歳ごろからで遅咲きの人物だったのです。

幼少期からの特別な才能

安倍晴明は、子供の頃から特別な能力を持っていました。
彼は普通の人には見えない鬼や妖怪を見ることができたのです。
この才能のおかげで、彼は賀茂忠行という人から陰陽道を学び始めました。
陰陽道は、自然の力を使って運命を占ったり、悪いものを追い払ったりする技術です。

宮廷での重用

晴明は40歳になってから、天文得業生(てんもんとくぎょうせい)という特別な学生になりました。
これによって、彼は正式に陰陽道の勉強を始めました。
その後、960年には村上天皇から占いを頼まれ、すぐに朝廷で大切にされるようになりました。
晴明は陰陽頭(おんみょうとう)という役職に昇進し、陰陽道のトップとして活躍しています。

高度な占術の評価

安倍晴明の占いはとても正確で、多くの人々に信頼されていたようで、その結果は、朝廷の公式な意見として使われることもありました。

占いで公式の意見に使われそれが施行されるとは、現代の感覚ではおどろきですが、晴明のうらないで、平安時代の人々は大切な決断をする際に彼の意見を参考にしていたようです。

この時の清明の年収は?

余談ですが、この時の清明の年収は、2億円から4億円くらいだったのでは?と言われています。

安倍晴明の官僚としてのキャリア

主計権助としての任命

安倍晴明は、75歳のときに主計権助(しゅけいごんのすけ)という大切な役職に任命されました。
この役職は、国のお金を管理する仕事で、とても重要で、晴明はこの役職でも優れた能力を発揮したと言われています。

多岐にわたる官職

79歳のときには穀蔵院別当(こくぞういんべっとう)、82歳のときには大膳大夫(だいぜんのたいふ)や左京権大夫(さきょうのごんのたいふ)にも任命されました。
これにより、晴明は陰陽師だけでなく、国の運営にも関わる重要な仕事をしていました。

それにしても当時は定年とかなかったんですね。

晴明の遅咲人生と長寿

安倍晴明のキャリアは、40歳で天文得業生になるという遅いスタートがありましたが、彼は85歳で亡くなるまでずっと現役で働き続けました。
彼は陰陽師としての専門的な知識と、官僚としての実務能力を持っていた特別な人物でした。
決して星だけを見て占ている人生ではなかったようです。

イメージとしては霞食ってる雰囲気の清明君でしたが、実際は理論的な人物だったんでしょうね。

陰陽道の変遷:賀茂家から安倍家へ

陰陽道は平安時代に大きな転換期を迎えました。

安倍晴明が登場するまで、この重要な役職は賀茂家によってほぼ独占が、晴明の出現により、陰陽道の勢力図は大きく塗り替えられることになります。

賀茂家の時代

陰陽道は元々、天文道・暦道・陰陽道の三部門に分かれており、それぞれに専門家がいたようですが賀茂家、特に賀茂忠行はこの三つの分野全てに精通し、陰陽道の第一人者として朝廷で重用されていました。

賀茂家は長年にわたり、この分野での権威を保ち続けていました。

ところが…。

安倍晴明の登場

安倍晴明は、実は賀茂忠行の弟子でした。
幼少期から特別な才能を持っていた晴明は、賀茂忠行から陰陽道の全てを学びました。

晴明の才能は並外れており、57歳頃から陰陽師として頭角を現し始めます。
安倍晴明は加茂家という母屋を乗っ取った形になっていきます。

安倍家の台頭

晴明の活躍により、安倍家は急速に陰陽道の中心的存在となっていきました。
晴明は単なる占いや天文観測だけでなく、呪術や式神の使役など、それまでの陰陽師の領域を超えた能力を示したことで、朝廷での信頼を大きく獲得しました。

安倍家の継承

晴明には2人の息子がおり、彼らも父の跡を継いで陰陽師として活躍しました。
以降、陰陽道は安倍家に受け継がれていきます。
室町時代になると、安倍家は「土御門家」と名乗るようになりました。

明治時代まで続いた影響力

安倍家(後の土御門家)は、明治時代初期まで陰陽寮を統括し続けました。
約900年もの長きにわたり、日本の陰陽道を牽引し続けたのです。
この間、彼らは朝廷や幕府において重要な役割を果たし、日本の文化や政治に大きな影響を与え続けました。
安倍晴明の登場は、単に一人の天才陰陽師の出現というだけでなく、日本の陰陽道の歴史をそして安倍家の家柄を大きく変える転換点となりました。

安倍晴明の最期と死因

安倍晴明は1005年(寛弘2年)10月26日に、84歳で亡くなりました。
彼の死は『日本紀略』という歴史書に記録されています。

個人の死が公式の文書に載るとはいかに存在が大きかったのがうかがえます。

晴明の最期

晴明は生涯現役で陰陽師として活躍し続けました。
彼は84歳という当時としては非常に高齢まで生き、朝廷での重要な役職を務めていました。
晴明は死の直前まで陰陽寮の長官である陰陽頭の職にあり、その能力を発揮し続けていたと考えられています。

死因

安倍晴明の具体的な死因は明確には記録されていません。
しかし、以下のような推測がされています

老衰: 84歳という高齢であったことから、自然な寿命を全うした可能性が高いとされています。
病気: 当時の医療水準を考えると、何らかの病気にかかった可能性もあります。
伝説: 晴明の母が狐(お父さんは狸だったんだろうか?)であったという伝説から、彼の寿命は通常の人間よりも長かったという説もありますが、これは後世の創作です。

晴明の死後

安倍晴明の死後、彼の子孫たちが陰陽道の家系を継承しました。
彼の名声は死後も衰えることなく、むしろ時代とともに伝説化され、様々な物語や伝承の中で語り継がれています。
安倍晴明の死は、一人の偉大な陰陽師の生涯の終わりでしたが、同時に彼の名を冠した陰陽道の新たな時代の始まりでもありました。
彼の業績と伝説は、日本の文化に深く根付き、今日まで人々の想像力を刺激し続けています。

陰陽師といえば安倍晴明というような認識だったのではないでしょうか?

京都には清明神社もありますし、清明が陰陽師という役職を格上げしたと言っても過言ではないような気がします。

安倍晴明略年表

年齢出来事説明
0921年2月21日生誕摂津国阿倍野(現在の大阪府大阪市阿倍野区)に生まれる。
幼少期特別な能力に気づく鬼や妖怪が見えるという特別な能力に気づく。
賀茂忠行に師事陰陽道を学ぶ。
40歳頃天文得業生になる陰陽道の専門的な勉強を始める。
960年頃村上天皇から占いを頼まれる宮廷で活躍し始める。
陰陽頭に昇進陰陽道のトップに立つ。
精度の高い占術で信頼される占いの結果が朝廷の公式な意見として採用される。
75歳頃主計権助に任命国のお金を管理する重要な役職に就く。
79歳頃穀蔵院別当に任命食料に関する仕事も担当。
82歳頃大膳大夫、左京権大夫に任命国の運営に深く関わる。
1005年10月26日逝去長く活躍した生涯を閉じる。