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人物・戦国時代

【意外な素顔】「猛将・柴田勝家」宣教師フロイスが記録したもう一つの賤ヶ岳

「かかれ柴田」の異名を持ち、織田家の筆頭家老として戦国時代を駆け抜けた猛将・柴田勝家。

武骨で恐ろしい「鬼柴田」のイメージが強い彼ですが、1583年の賤ヶ岳の戦いに敗れ、越前・北ノ庄城で最期を迎えたとき、一体どのような姿を見せていたのでしょうか。

単に敗者として無念のうちに散っていっただけだったのでしょうか。

実は、当時の日本に滞在していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録には、私たちが知る猛将のイメージを覆す「情に厚く、誇り高き柴田勝家の本音」が克明に残されています。

離反した家臣を責めるどころかその未来を案じ、死を前にしてもなお家臣や妻子への慈しみを見せた勝家。

今回は、フロイスの『日本史』などの史料から、異国の宣教師の眼差しが捉えた「人間・柴田勝家」の知られざる素顔と、凄絶な落城劇の真実を読み解きます。

安土城を超えた?フロイスを驚かせた幻の「九重天守」

柴田勝家といえば、戦場を縦横無尽に駆け巡る「武骨な猛将」というイメージが先行しがちです。

しかし、彼が居城とした越前国・北ノ庄城(現在の福井県福井市)は、その武者イメージを鮮やかに覆すほどの壮大な名城でした。

その凄まじさを今日に伝えるのが、宣教師ルイス・フロイスの記録です。フロイスは著書『日本史』の中で、北ノ庄城について次のように驚きをもって書き残しています。

「城は織田信長が安土に建てたものよりも巨大で、九重(九階建て)の天守を有し、屋根には石(越前特産の笏谷石)が葺かれていた」

織田信長が築いた天下の名城・安土城ですら天守は「七重」とされています。

フロイスの記述通りであれば、勝家の北ノ庄城は安土城をも上回る階数を誇る、破格の超高層城郭だったことになります。

さらに特徴的なのが、屋根に葺かれた「石の瓦(笏谷石)」です。

青みを帯びた笏谷石(しゃくだにかいし)は、雨に濡れると一層深い青緑色に輝く性質を持ちます。北陸の積雪に耐える実用性と、異国の宣教師をも感嘆させる圧倒的な美観を兼ね備えていたのです。

勝家は決してただ敵をなぎ倒すだけの「荒武者」ではありませんでした。

北陸の地にこれほど巨大で洗練された巨城を築き上げた背景には、北陸総構えを統制する高い統率力と経済力、そして織田家の筆頭家老にふさわしい堂々たる権威と高い美意識が存在していたのです。

裏切った前田利家を許す——敗戦で見せた驚くべき「温情」

1583(天正11)年、羽柴秀吉と天下の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」。

この決戦の勝敗を決定づけた最大の事件が、勝家陣営の有力将領であった前田利家の戦線離脱でした。

戦況が拮抗する中、突如として陣を引いた利家。与力として長年勝家に従い、親子のような強い絆で結ばれていた利家の離脱は、柴田軍の崩壊を招く決定打となりました。

現代の感覚で言えば「最大の裏切り」です。

しかし、敗走する勝家が取った行動は、人々の予想を裏切るものでした。

勝家は北ノ庄城へ逃げ帰る道中、あえて利家の居城である府中城(現在の福井県越前市)へ立ち寄ります。

周囲が緊張に包まれる中、勝家は利家を責めるどころか、次のように言葉をかけたと伝えられています。

「お前と秀吉はもともと仲が良いのだから、秀吉の陣へ行って家を存続させなさい。これまでの忠義、感謝する」

勝家は利家から差し出された湯漬けを平らげると、利家の立場や将来を思いやり、温かく別れを告げて北ノ庄城へと向かったのです。

 

フロイスと前田家双方の記録が証明する「勝家の本音」

この時に見せた勝家の温情は、フロイスの記録にも色濃く残されています。

フロイスは報告書の中で、死を悟った勝家が「自分から離れていった家臣たちに対しても一切の恨み言を口にしなかった」と書き記しています。

それどころか、最後まで北ノ庄城に付き添ってきた家臣たちに対しても、「命を捨てて自分に付き合う必要はない。生き延びてくれ」と落ち延びることを許し、今生で彼らの愛情や忠義に報いることができない無念を深く嘆いたと伝えています。

興味深いのは、この逸話がキリシタン宣教師であるフロイスの記録だけでなく、離反した側である前田家の家臣・村井重頼が残した覚書(『村井重頼覚書』)にも同様の内容で記されている点です。

敵対する海外の第三者による記録と、かつての部下側の記録。

立場を異にする複数の史料が一致して「勝家の深い慈しみ」を証言しているという事実は、この温情あふれる人柄が後世の創作ではなく、柴田勝家という男の「真実の姿」であったことを物語っています。

炎と歌声の中で——北ノ庄城・凄絶なる最期の酒宴

羽柴秀吉の大軍に完全包囲され、もはや絶望的となった北ノ庄城。

しかし、城内から聞こえてきたのは、悲鳴や怒号ではなく、意外な音でした。

フロイスの記録によると、城から戦闘の音が止んだ後、包囲する秀吉軍の耳に響いてきたのは「陽気な歌声や歓声」だったと描かれています。

死を覚悟した勝家は、最期の夜に妻のお市の方や一族、残った家臣たちを集め、今生の別れを惜しむ壮絶な酒宴を開いていたのです。

敗北の恐怖に怯えることなく、武士としての誇りと絆を確かめ合うように酒を汲み交わし、歌を詠み合いました。

妻子への終止符と「十字切り」の壮絶な最期

宴が果てると、最期の時が訪れます。

勝家は城内に藁と火薬を敷き詰めさせると、愛する妻のお市の方をはじめとする女性や子どもたちが敵の手にかかって恥を晒すことのないよう、自ら手をかけるか、あるいは見届けて見送りました。

そして自らは短刀を手に取ると、腹を「十字」に深く切り裂いて切腹を果たします。内臓が飛び出るほどの激痛に耐えながら、自ら火を放たせ、北ノ庄城は眩い炎と煙に包まれました。城に残った武士たちもまた、主君の後を追って見事に腹を切り、散っていったのです。

逃げ延びた侍女の証言が伝えるリアル

フロイスが書簡や著書『日本史』にこれほど詳細な落城劇を記録できたのは、難を逃れて城から脱出した老女(侍女)たちの生々しい証言を得ていたからだとされています。

死の直前まで保たれた異様なまでの静けさと決意、城内から響いた最期の歌声、そして一切の醜態を晒さず美学を貫いた自害。

異国の宣教師のペンは、日本の軍記物語にも劣らない凄絶さと誇り高き「武士の道」を、ありのままに後世へ描き出しています。

 

まとめ:異国の史料が明かす「人間・柴田勝家」の美学

戦国時代の勝者である羽柴秀吉側の記録や後世の軍記物では、柴田勝家はしばしば「時代遅れの武骨な猛将」や「時代の波に乗り遅れた敗者」として語られがちです。

しかし、キリスト教布教の現場から客観的な眼差しで日本を観察していたルイス・フロイスの記録は、そうした一面的なイメージを鮮やかに裏切ってくれます。

  • 先進性と美意識: 安土城をも凌ぐとされる九重天守の北ノ庄城を築き上げた圧倒的な統率力と美意識。

  • 圧倒的な器の大きさ: 自らの敗北を決定づけた前田利家を憎むことなく、その未来を託して送り出した深い温情。

  • 誇り高き美学: 最後まで付き従った家臣や家族を深く慈しみ、武士としての誇りを胸に散っていった最期。

異国の宣教師が書き残した「もう一つの賤ヶ岳」の記録は、勝者の歴史の陰に隠れがちだった柴田勝家という男の「真の人間力」を今に伝えています。

単なる「武功の猛将」ではなく、家臣を想う温かい人情と自らの誇りを貫き通した生き様こそが、400年以上経った現代の私たちの心をも惹きつけてやまない柴田勝家という武将の本質なのかもしれません。