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実は勝家・お市が先だった!信長大葬を巡る秀吉の罠と勝家欠席の真相

「信長の大葬」と聞いて誰もが思い浮かべるのは、京都・大徳寺で豊臣秀吉が取り仕切ったド派手な儀式ではないでしょうか。

しかし、実は秀吉よりも先に、お市の方や柴田勝家ら「身内」が信長の法要を済ませていたという事実をご存じですか?

それにもかかわらず、なぜ勝家は秀吉の挙げた大葬に姿を現さなかったのか。

そこには単なる欠席理由だけでなく、「秀吉が仕掛けた恐ろしい政治的トラップ」と「圧倒的な上書きマウント」が存在していました。

本記事では、大河ドラマや歴史作品でも描かれる信長追悼の裏側と、葬儀を舞台に繰り広げられた秀吉vs勝家の主導権争いの真相を分かりやすく解説します!

本能寺の変から大徳寺法要までの流れ

年月日(天正10年/1582年)出来事現場・主な舞台概要・歴史的意味
6月2日本能寺の変京都・本能寺明智光秀の謀反により織田信長が死亡。遺体は見つからず。
6月13日山崎の戦い山城国・山崎(現在の京都府乙訓郡山崎町付近)羽柴秀吉が明智光秀を破り、信長の「仇討ち」を果たす。
6月27日清須会議尾張国・清須城(現在の愛知県清須市)織田家の跡目(三法師)や領地再配分を決定。勝家と秀吉の対立が表面化。
6月〜8月頃身内による信長法要美濃国・岐阜城(岐阜県岐阜市)/近江国・安土城 など織田信孝・柴田勝家・お市らが中心となり、織田家の身内として信長の追善供養を行う。
8月頃お市と勝家の再婚尾張国・清須城 → 越前国・北ノ庄城(福井県福井市)お市が柴田勝家と再婚し、勝家の本拠地である北ノ庄へ移動。
10月15日京都・大徳寺の信長大葬山城国・大徳寺(現在の京都府京都市北区)秀吉が三法師を擁立し主催。最高級香木の木像を燃やし、天下へ自らの威光を示した。

実は秀吉より先だった!お市・勝家・信孝が行った「身内の法要」

「信長の大葬」といえば、京都の大徳寺で豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が取り仕切った豪華絢爛な儀式を思い浮かべる方が多いかもしれません。

しかし、歴史の事実を紐解くと、秀吉が動く数ヶ月も前に、すでに信長の法要を執り行っていた陣営が存在していました。

それが、信長の妹であるお市の方、織田家の筆頭家老・柴田勝家、そして信長の三男である織田信孝の3人です。

織田家の「正統な身内」による追悼

1582年6月、本能寺の変の直後に開かれた「清須会議」によって、織田家の勢力図は大きく揺れ動きました。

この会議を経て、信長の妹であるお市様は勝家と再婚し、信長の三男・信孝の後見役として共に歩む道を選びます。

彼らがまず着手したのが、岐阜城や安土城などを舞台に行われた、信長の「百日忌」に向けた追善供養でした。

秀吉が京都で動くよりも早く、織田家にゆかりの深い城々で、しめやかに、しかしおごそかに法要を執り行ったのです。

この「身内による法要」には、単なる故人への哀悼にとどまらない、非常に切実な2つの意図が込められていました。

  • 身内としての意地 山崎の戦いで明智光秀を破ったとはいえ、秀吉はあくまで織田家の「一家臣」に過ぎません。その秀吉が清須会議以降、まるで織田家の主であるかのように振る舞い増長していく姿に対し、勝家やお市様は強い不快感を抱いていました。「織田家の正当な血縁であり、身内である自分たちこそが、まず最初に信長様を弔うのが武家としての筋である」という、強烈な誇りと意地があったのです。

  • 家臣主導への牽制 当時、武家社会において「葬儀や法要を誰が主催するか」は、政治的な後継者の地位を天下に示す極めて重要な意味を持っていました。秀吉に主導権を握られ、織田家が乗っ取られることを防ぐためにも、織田家の血を引くお市様や信孝が前面に立ち、「主導権は我々にある」とアピールする必要がありました。

このように、秀吉が大徳寺でド派手な演出を仕掛ける裏では、まず「血縁と筋」を重んじたお市様や勝家たちによる、静かな先制攻撃が行われていたのです。

なぜ勝家は秀吉の大葬に来なかったのか?「二重の理由」

ではなぜ、後に秀吉が京都で行った「信長の大葬」に、織田家の筆頭家老である柴田勝家は参列しなかった(あるいはできなかった)のでしょうか?

信長追悼の場であるはずの儀式に、長年仕えた筆頭家老が姿を見せないというのは、当時の誰の目から見ても異常事態でした。

しかし、この「欠席」の背景には、勝家側の切実な心情と、軍事・地理的な制約という二重の理由が存在していたのです。

理由①:すでに自分たちで供養を終えていたから(心情の壁)

勝家やお市様たちからすれば、すでに岐阜城や安土城などで、身内としての筋を通した追善供養をしっかりと完了させていました。

そのため、秀吉が京都・大徳寺で仕掛けたド派手な大葬は、故人を心から偲ぶための供養などではなく、「秀吉が自身の権力を世に知らしめるための筋違いな政治パフォーマンス」にしか見えていませんでした。

「すでに身内で然るべき供養を済ませたのに、なぜ一家臣に過ぎない秀吉が主催する催しに、わざわざ出向いて頭を下げなければならないのか」という不快感と意地が、勝家の足を遠のかせた大きな要因のひとつでした。

理由②:冬の足音と地政学リスクで軽々しく動けなかった(物理の壁)

もうひとつの決定的な理由は、勝家の本拠地である越前(現在の福井県)が抱える、軍事・地理的な環境でした。

  • 上杉氏に対する厳重な警戒 北陸の地政学上、隣国である越後(新潟県)の上杉景勝に対する備えを解くわけにはいきませんでした。手勢を引き連れて本拠地を空けることは、背後を脅かされる致命的な隙を生むことになります。

  • 豪雪期を前にした季節の壁 秀吉が大葬を行った旧暦10月15日は、新暦に換算すると11月中旬頃(初冬)にあたります。北陸特有の荒れやすい天候に加え、まもなく訪れる本格的な豪雪期を前に、長期間本拠地を離れて京都まで大軍を動かすことは、帰路や補給線の途絶を招く極めて危険なリスクを伴うものでした。

このように勝家の不参加は、単なる「嫌がらせによるボイコット」にとどまらず、「身内として筋を通した自負」と「北陸という土地が抱える現実的な制約」が重なった結果だったのです。

そして秀吉は、勝家が抱えるこの「身動きの取りづらさ」を冷酷なまでに見抜いていました。

秀吉の恐るべき暗闘:勝家たちの法要を「ド派手に上書き」

勝家たちの先行した動きや、北陸の地政学ゆえに身動きが取れない事情を、百戦錬磨の秀吉が見逃すはずもありませんでした。

秀吉は勝家が政治的・地理的に京都へ来られないタイミングを正確に見極め、恐ろしい政治的トラップと演出合戦を仕掛けます。

スケール感で身内の法要を「なかったこと」にする

身内だけでしめやかに行われた岐阜城や安土城での法要に対し、秀吉がぶつけたのは京都・大徳寺での規格外な「大葬」でした。

最高級の香木で彫り上げた等身大の信長坐像を焚き上げ、芳しい香りで京の街全体を包み込むという超ド派手なパフォーマンスを繰り広げます。

世間の話題と公家・武士の視線を一気に独占することで、勝家たちが行った先の法要を「影の薄いローカルな出来事」として世間の記憶から上書きしてしまったのです。

三法師を抱え込み、勝家を「不忠者」へ追い込む

さらに秀吉は、清須会議で織田家の後継者に決まった信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を喪主として前に抱え出し、「亡き信長様の遺志と跡取りをお守りする者=自分」という強烈なポーズを天下に示しました。

そして、あえて勝家が絶対に来られない時期を狙ってこの一大イベントを強行したことで、世間や他の織田家臣団に対して「信長様の盛大な葬儀にさえ顔を出さない不忠者」というレッテルを勝家に貼ることに成功したのです。

まとめ:葬儀という名の政治決戦、勝敗の分かれ目

本能寺の変以降、繰り広げられてきた織田家内の主導権争い。

それは単なる武力闘争にとどまらず、「どちらがより正統に、そして盛大に信長を弔うか」という、葬儀を舞台にした見えない政治決戦でもありました。

  • 勝家・お市側の筋 身内としての正統性を掲げ、いち早く法要を済ませて武士としての筋を通した

  • 秀吉の戦略 圧倒的な資金力とプロデュース力で「大葬」を仕掛け、過去の法要を演出で上書きした

  • 決着の行方 演出力で世論と家臣団の心を完全に掌握した秀吉が、政治的な勝利を収めた

血縁と武家の矜持を重んじ、筋を通した勝家とお市様。

しかし、演出の天才・秀吉が仕掛けた緻密な罠によって政治的な孤立へと追い込まれていきました。

こうして「信長の葬儀」を巡る暗闘で決定的となった両者の格差は、やがて訪れる直接の武力衝突——「賤ヶ岳の戦い」へと急速にカウントダウンを進めていくことになるのです。

 

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